お知らせ

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2022/10/03

今週の校長の話(2022.10.3)「沖縄修養会」

校長 小田中 肇

 

【聖書:創世記1章1~4節】

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」

 

1,2年生の皆さん、修養会お疲れ様でした。3年生は3泊4日で土曜日まで修養会があったため今日は休みです。

1年生は3日間、津南でのキャンプ、2年生は3日間、歩く修養会でした。

天候にも恵まれ、コロナの感染者を一人も出すことなく、すべてのプログラムを行うことができたことをうれしく思います。

 

修養会は一つの旅にたとえられると思います。

いつもと違う経験をして人間的に成長するための旅です。

しかし、この旅にはもう一つの目的があります。

それは、私たちが当たり前に生きている日常の再発見です。

皆さんは、修養会が終わり、家や寮に帰ったとき、ほっとしませんでしたか。

近くにいる家族や寮の友達とすごす日常に安らぎを感じたはずです。

日常とは命のいとなみです。家族や友人とともに当たり前に生きているこの命をかけがえのないものとして再発見すること、それが旅のもう一つの目的だと思います。

皆さんも4月からの学校生活をここでリセットして、新しい気持ちで一年の後半に臨んで欲しいと思います。

 

さて、私は3年生の修養会に同行しました。3泊4日で沖縄に行きました。

沖縄は77年前、日本で唯一、地上戦が行われた場所です。

住民の4分の1が亡くなられ、日米双方の軍人も加えると20万人以上が亡くなりました。

その中でも特に多くの方が亡くなられた場所を訪問し、現地の方のお話しを聞き、平和について学ぶ修養会でした。

 

印象に残ったことをいくつかお話しします。

先ず、3年生のお話しを聞く姿勢がしっかりしていたことです。気持ちが重くなるようなところでも、みんな真剣に耳を傾けていました。

資料館でも時間が足りなくなるくらい熱心に見ていました。

事前学習にしっかり取り組んで参加していることが伝わってきました。

さすがは敬和学園の3年生だと思いました。

 

今回、さまざまな場所を訪問しましたが一つだけ紹介します。

「ひめゆり平和記念資料館」です。

アメリカ軍が上陸した年、女学生240名が沖縄陸軍病院に動員され、そのうち136名が亡くなりました。年齢は16歳から18歳です。

亡くなられた女学生を記念するための資料館です。

 

資料室の入り口に大きな写真がありました。動員前に撮られた集合写真です。

みんな笑顔で、楽しそうに笑っています。希望にあふれた表情をしています。

真ん中には校長先生が座り笑顔で写っています。

今の高校生と変わりません。

 

別の部屋には、亡くなられた一人ひとりの写真が壁一面に展示されていました。

写真の下には名前とその人の性格とか好きなもの、そして亡くなった場所が書かれていました。

写真からは、女学生たちがどんなに生きたかったことか、その思いが痛切に伝わってきました。

見る人に、自分の命をもっと大切にするように、そしてその命を生き抜くようにと、語りかけてくるようでした。

私は自分の母親のことを思い出しました。母は6年前に86歳でなくなりましたが、終戦の時、15歳でした。

この女学生たちと同世代です。もしこの女学生の一人が母だったら、どうだったろうか。私はこの世に生まれていません。

そして、今も世界では戦争やテロで多くの方が亡くなっています。そのことの重さ、一人ひとりの命の重さに気づかされます。

 

言うまでもなく、戦争は自然災害ではありません。

人間が引き起こしたものです。今のロシアとウクライナを見れば分かるように、一度、始まれば終わりにするのが難しい。

かつて日本は中国をはじめアジアの国々やアメリカと15年間にわたる戦争をしました。

最終的に日本は勝ち目がないと分かっていながら戦争をやめることができませんでした。

その結果、沖縄の住民をはじめ多くの犠牲者を出しました。結局、広島と長崎に原爆を投下されてようやく無条件降伏を受け入れました。

 

当時の若者は国のために命をすてることが学校教育によって教えられました。

だから平和教育は重要です。

ところが、今、日本では平和教育はほとんど行われていません。

広島、長崎、沖縄では小学校からやっていますが、それ以外の地では行われていません。

今に始まったことではありません。私は栃木県出身ですが、小・中・高等学校で平和教育を受けたことはありませんでした。ですから、昔から行われていないのです。

戦後、日本は戦争の現実としっかり向き合うことをせず、経済的復興に邁進(まいしん)してきました。

 

何人かの3年生に小・中学校で平和教育を受けたことがあるか質問してみました。するとほとんどの生徒は「ない」と答えました。

一部の生徒は中学校で、戦争や差別は絶対してはいけないことを人権教育(同和教育)の一環で学んだ、と言っていました。

私自身も平和の問題について学んだのは敬和に就職してからです。

敬和の修養会での学びや私が所属する新潟教会での平和についての集会や学習会に参加して少しずつ学んできました。

その意味でも、敬和で行われている平和教育は重要だと思います。

聖書や社会科の授業、英語特講「ヒロシマ碑巡りの旅」など様々な場で学ぶことができます。

 

そして、この混沌として戦争の危機をはらんだ今の世界においてこそ、敬和生が、卒業後、社会に出て「地の塩、世の光」として、平和をつくりだす者として歩んで欲しいと願います。そのための教育にいっそう取り組む必要があると思います。

 

今日の聖書です。混沌とした闇の中で神は言われます。「光あれ。」こうして光があった。神はそれを見て良しとされた。

 

「良しとされた。」これは神様の肯定の言葉です

だからどんなに闇が深くても絶望してはいけない。

神様の肯定の言葉は今も世界に響き渡っています。

私たちも希望をもってこの世界を歩む者でありたいと願います。

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