自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2022/09/26
校長 小田中 肇
【聖書:マタイによる福音書 4章 4節】
人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。
今日の聖書は、イエスが悪魔から誘惑を受ける場面です。
イエスは40日と40夜、荒野で断食した後、空腹を覚えられます。
するとサタンが来て、イエスに言います。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
その時、イエスが答えた言葉が今日の聖書です。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
パンとは食料のことです。お腹が空いたとき一番欲しいのはパンです。
ところが、イエスは、人はパンだけで生きるものではない、と言います。
どういうことでしょうか。パンを食べなければ、生きて行けません。
しかしイエスは、パンよりも大事なものが人間にはある、と言います。
それは何でしょうか。
お金でしょうか。勉強やスポーツに優れていることでしょうか。違います。
それは、神の口から出る一つ一つの言葉だ、とイエスは言います。
ますます分からなくなりそうですが、それが本当の意味で、人間を人間として生かしてくれる、というのです。
食べ物を食べて生きるだけならば、他の動物と変わりません。
しかし、人間は神の言葉によって生かされる存在だ、というのです。
では、人間と他の生物との違いは何でしょうか。人間とは何者でしょうか。
そして神の言葉とは何を意味するのでしょうか。
それは難しい問いです。その答えは一人一人に委ねられています。
人が一生、問い続けなければならない問いかもしれません。
しかし、問い続ける者に神様は必ず答えを備えてくださいます。
さて、明日、安倍晋三元総理の国葬が予定されています。
先日、開催された敬和学園の理事会において榎本理事長から、学園としてはそのために特別に何かを行うことはしないことが方針として示されました。
また、旧統一教会の問題が社会を騒がせています。
この旧統一教会と敬和学園は何の関わりもないこともあわせて皆さんに伝えたいと思います。
この問題を通して、宗教全般へのイメージが悪くなり、キリスト教学校である私たちにとっては残念な状況です。
本当の宗教とは神様の御言葉を中心とし、それによって生かされている宗教です。
人間の様々な欲望、支配欲、権力欲、金銭欲をその中心におく宗教はニセモノです。
皆さんは敬和の学びをとおし本物とニセモノの宗教を見極める目を養って欲しいと思います。
話しは変わりますが、先週の日曜日、9月18日に長野敬和の会があって行ってきました。
長野県長野市にある松代教会で行われましたが、卒業生やその保護者、敬和への入学を考えてくれている中学生も参加してくれました。
学校からは私と寮の小林先生、山﨑先生が参加しました。
開始が午後2時だったので新潟を10時ころ出発すればいいかな、思っていましたが、寮の先生に学校発午前6時です、と伝えられました。
10時15分に始まる礼拝から出席するためでした。
確かに日曜日に教会に行くのだから礼拝に出席するのは当然です。
私は自分の考えの浅かったことに恥ずかしくなりました。
寮の車で行ったのですが、途中、「松代教会は礼拝中、足を組んだり、腕を組んだりすることが禁止だから気を付けてください」、と教えられました。
教会に到着し、礼拝に出席しました。
教会で配られる週報(プリント)を見ると、そこには次のような文章が載っていました。
「礼拝は、神の前に立っているので、礼拝中の腕組み、足組はやめてください。」
松代教会が礼拝をとても大切にしている教会であることが伝わってきました。
私たちも1時間の礼拝を、足を組むことなく、姿勢を正して守りとおしました。
礼拝の後、教会ではお昼をご準備してくださいました。
教会の木原牧師は礼拝に対しては厳しい方ですが、お昼の時、お話しするととても穏やかな優しい先生でした。
午後2時から敬和の会が始まりました。
私たちも入れて合計13名の参加でしたが、そのとき参加してくださった長野県出身の卒業生の言葉が印象的だったので紹介します。
先ず、この3月に卒業した52回生のTさんのお話しです。
Tさんは、今、東京の大学に通っています。
東京で一人暮らしをしているので、その日、あったことをすぐに分かち合える仲間が今はそばにいない。
高校時代は寮にいたので、一人になりたいと思ってもいつも近くに仲間がいた。そのことの恵みに気づかされた。
また敬和では当たり前に思っていた、他者のために働くこと、多様性や人権の問題などが、外に出てみるとあまり考えている人がいないことに驚かされた。
大学ではそのような問題について自分の考えを述べると周りから高く評価してもらえる。
51回卒業のKさんです。Kさんは関東にある看護大学の2年生です。
勉強は大変だが、敬和の卒業生と連絡をとって互いに支え合ってがんばっている、と言われました。
50回卒業のIさんです。現在、京都にある芸術系の大学で建築を学んでいます。
自分は人前に出ることが苦手だったが、敬和では、まわりが自分を引っ張ってくれた。
そのおかげで、人前に立つことができ、さまざまな経験をすることができた。
今もそのときの自信が自分の力になっている、と言われました。
そして卒業生3人が共通して言われたのが、敬和でできた友達のことです。
友達の存在が、卒業後もどんなに大切かを彼らは教えてくれました。
是非、皆さんも敬和で友達をつくってください。
会の終わった後、私は教会の木原牧師と少しお話しすることができました。
先生は息子さんを2人、敬和に送ってくださっています。41回生と45回生です。
先生は長野県の教会の牧師やそのお連れ合いに敬和の関係者が何人もいることを教えてくださいました。名前もあげられましたが4,5名はいたと思います。
敬和の卒業生が活躍していることを知って嬉しく思いました。
また次のように言われました。
「敬和は大雪などでバスが遅れても、全校で待って礼拝をおこなう。そういうところが信頼できると思った。これからも守ってください。」
私は答えました。「これからも礼拝を大切にしていきたいと思います。」
敬和のキリスト教教育に期待と信頼を寄せてくださる方がおられることを知り、大変、励まされました。
これからも、その信頼にこたえることのできる学校、どのような厳しい状況のなかにあっても神様の口からでる一つ一つの言葉によって生かされる学校でありたいと思いました。