毎日の礼拝

校長のお話

2007/02/01

「幸せなら手をたたこう」

聖書:詩編47編1~2節
「しあわせなら手をたたこう」という歌を知っていますか。今から40年前にヒットした歌です。坂本九という歌手が歌っていました。キャンプや集会でその場を盛り上げたり、打ち解けたりするために歌われます。
「幸せなら手をたたこう・・・幸せなら態度で示そうよ、ほらみんなで手をたたこう・・・」。「幸せなら手をたたこう」の歌詞を作ったのは木村利人さんという人です。木村さんはクリスチャンで、今は恵泉女学園大学の学長をされています。その木村さんが大学生だった40数年前のことです。YMCA国際学生ワークキャンプでフィリピンに行くことになりました。韓国、ドイツなどの学生と一緒に荒れた土地を整地するボランティア活動に参加したわけです。
木村さんはフィリピンの貧しい人たちのために働こうと考えて参加しました。フィリピンの貧しい人たちのためにボランティアしたいとやってきた木村さんたち日本人にフィリピンの人たちは必ずしも好意的ではありませんでした。憎しみを持った目で見る人もいました。
それは、太平洋戦争で日本はフィリピンにも侵略し、たくさんの人を虐殺しその生活を奪うということがあるからです。
そういうことはある程度覚悟していた木村さんですが、その木村さんが一番ショックだったのはボランティアで出かけた小さな村の教会の前にあった記念碑の言葉を見た時でした。
その記念碑には次のように刻んであったそうです。「戦時中、日本兵がやってきて、村人を皆殺しにした。そのことを私たちは忘れない」。木村さんはショックを受けながらも真面目に辛い整地の作業に真面目に取り組みました。そうしたある晩のことです。
一人の若者が木村さんのところにやってきていいました。
「自分の父親は日本兵に殺された。それから日本人をすべて憎んできた。だけど自分はイエス・キリストによって、その悲しみと苦しみが癒された。自分の罪も許されていることがわかった。だから日本人であるあなたをゆるしたい。そして未来に向けて二度と悲惨な戦争を起こさないように、日本人のあなたとも手を取り合って平和な世界を作って生きたい」。
それからその人は、そういう自分の思いを「態度で示して」何かと木村さんたちに心遣いをしてくれたというのです。そうした自分の体験と平和への思いを詩編47編2節を下敷きにして作ったのが、「幸せなら手をたたこう」とのことです。
ここに登場している人は、自分が幸せだと言うことがわかって、その喜びを手をたたくという態度で表しました。
手をたたく、拍手ができる幸せとはどういう幸せでしょうか。お金があって物に溢れた生活ができることでしょうか。やりたくないこと、面倒なことはしないですむことでしょうか。好きな人とだけ付き合うことでしょうか。
そういうときに手をたたくという気持ちになるでしょうか。手をたたきたくなるような幸せというのは、それは自分が許されているということがわかった時です。
詩編47編に登場する人は、自分が許され愛されるような価値がないにもかかわらず、それでも神様は許してくださっている、愛してくださっている、その感謝の気持ちを手をたたくという態度にあらわしたのです。
「幸せなら手をたたこう」の最後は
「幸せなら 最初から
幸せなら 最初から
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで 最初から」です。
「最初から」というのはやり直しができるということです。
やり直しができる幸せです。
人間の罪に対する許しを、神様はイエスさまを十字架に架けるという「態度に示して」くださったとキリスト教は考えます。許されているということがわかったら、安心して最初からやり直しができるのではないでしょうか。
敬和学園の入学検査の面接で、中学校でうまくやれなかった学校生活をもう一度やり直したいから、入学したいと話してくれる人がいます。失敗した人間関係をもう一度やり直したいと涙ながらに話してくれる人もいます。みなさんの中にもそういう人がいるはずです。
そういう気持ちを一言で言えば「もう一度最初から」です。そして、もう一度やり直したいとの気持ちを具体的に実現する人がたくさんいます。学校見学に来た中学生や保護者の人が一番驚くのが、敬和学園の生徒の表情と態度です。礼儀正しいというよりは自然な感じに驚かれます。
たとえば学校見学で緊張する中学生にニコッと笑って「今日は」と自分の方から声をかけることができるのは、ただ言われてできるものではありません。
それができるのは自分の中にある生きる力を見える形、態度に示すことができるからです。確かにそういう人がたくさんいます。それも学年が上になるほど多いと思います。なぜ、そうなっていくのか、それはやはり、さまざまな意味で自分が自分らしく生活することを許されている幸せを体や心で感じているからだと思います。
人間というのは不思議なもので、許されているということによって、自分勝手になるかといえば、逆にきちんとしよう、生き方が誇れるような自分になろうとします。
その代表がイエス様を裏切ったにもかかわらず、ゆるされたことを知って、人間として誇れるような生き方を態度で示したペトロでした。
敬和学園に学ぶということはそのペトロの延長線上に生きるということです。
許されていることをしっかり自覚しながら、そしてその喜びを態度でしっかり表すことのできる一週間にしていきましょう。