毎日の礼拝

校長のお話

2007/05/01

「カレーと弟」

聖書:コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23~26節
入学礼拝でわたしは「オリエンタル」と言う言葉を聞くカレーを思い出すという話をしました。
昔なつかしい味のカレーを食べると、今でもわたしが子どもの頃に人気のあったテレビ番組「がっちり買いましょう」を思い出します。
それはこの番組のスポンサーがオリエンタルカレーという会社であったからです。
それともう一つ、カレーを食べると、何かの拍子にふっと思い出す出来事があります。
しかもそれは決して嬉しい出来事ではありません。
むしろ思い出したくない部類のことです。
今から47、8年前のことです。
小学校3年生の時のことです。季節は冬でした。
その日の家の晩ごはんはカレーでした。
わたしには8歳下の弟がいます。
当時一歳半だった弟は夕方から寝ていたのでしょう。
寝起きで少しぼおっとしていました。
家はご飯を、ホーム炬燵をテーブルにして食べていました。
ご飯のとき、幼い弟にはテーブルが少し高くて食べにくいので、低い腰掛を作ってもらい、それに座っていました。
母が台所からカレーのお鍋を持ってきて、それをお皿に注ぐためにお鍋のふたを開けた時のことです。
母の斜め向かいに座っていた寝起きの弟がバランスを崩しました。
グラッとして、反射的に出した左手がカレーのおなべの中に入ったのです。
母はあっという言葉と同時に弟を抱え上げました。
そして、台所に飛んでいって、弟の左手に水道の水をかけました。
熱いカレーの中に手を突っ込んだのは一瞬のことです。
それでも一歳半の赤ん坊の薄い皮膚ですから、やけどするには十分すぎるほどの熱さと時間でした。
母は「お母ちゃん 痛い」と泣く弟を、年々子(ねんねこ)に包んで近所の医者さんまで走りました。
この間の母の動きはすばやかったはずでしたが、わたしはその光景をスローモーションのように思い出すことができます。
お医者さんから帰ってきて、弟を布団に寝かせた後、母は台所に行き、泣きながらカレーを流しに捨てました。
その日以来しばらくの間わたしの家でカレーが出てくることはありませんでした。
やがて再びカレーを作るようになってからも、母は長い間自分で食べるませんでした。
それはカレーを見る度に、もう少し自分が気をつけていたらと、罪の意識と親としての情けなさを感じないではいられなかったからです。
そういうわけで、50年近く経った今でも、わたしはカレーを食べると、弟のやけどと母の悲しそうな顔、泣きながらカレーを捨てていた姿を思い出すことがあるわけです。
今日の聖書はイエス様が弟子たちと一緒にパンとぶどう酒を一緒に食べる場面です。イエス様は弟子たち「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしを記念としてこのように行いなさい」といいながら、手に持っていたパンを裂いた、ちぎったのです。
そして、食事が終わった後で、コップに入ったぶどう酒を飲むときにも、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念として、このように行いなさい」といいながら、ぶどう酒の入ったコップを目の高さにかざしたのです。
イエス様はこの後すぐに、十字架にかけられて殺されます。
ですからこれはイエス様の遺言です。
パンは食事の度に食べます。
そしてパンを食べるためには、パンを手でちぎらなくてはなりません。
コップに入ったぶどう酒や水を飲むためには、それを持ち上げなければなりません。ということは、イエス様はそういう動作をする度ごとに、つまり毎日の生活の中でご自分を思い出しなさいといわれているわけです。
言い換えると、毎日の生活の中で何を忘れてはいけないといわれているのでしょうか。
人間というのはどんなに注意をしていても失敗をすることがあるわけです。
わたしの母はわが子に対して、ものすごく注意深く見ることができる人でした。
それでも自分の力ではどうしようもない、守ることができないことがある、ということを、息子のやけどを通して痛感させられたのです。
そして、そういう自分だからこそ、自分のことを絶対だと思わないで、神様の力と助けの必要なことを自覚するようになったわけです。
そして、その気持ちを毎日の食事の前のお祈りを通して、自分に言い聞かせるようになりました。
クリスチャンの人が、食事を前にお祈りするのには、そういう意味も含まれています。単に習慣でお祈りをしているわけではありません。
たとえ悪気がなかったとしても、人というのは思わぬ一言、何気ない一言によって、相手の人をどん底に落とし、深く傷つけてしまうことをしてしまうのです。
正しいと思ったことが、実はとんでもない結果を招くということがあるのです。
その代表がいざとなったらイエス様を裏切り十字架にかけてしまった弟子たちです。
そういう自覚は、わたしたち今に生きる人間が持たなければならない感覚・センスでもあります。
もしそういうセンスを政治家が、大人が、そして子どもがしっかり持つことができたら、世の中間違いなく幸せになります。
生きやすい世界になります。
ですから、友愛館で食事をする前に、一瞬でもいいですから、沈黙の中で自分と向き合い、そしてイエス様への感謝の気持ちを思い浮かべてください。
それによって、みなさん一人ひとりが安心して敬和生活をおくれるようになるということです。
充実した学校生活になって行きます。
それが平和な世界につながって行きます。