自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2022/05/30
校長 小田中 肇
【聖書:創世記2章7節】
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
皆さんは運命を信じますか。
生まれた時にその人がどのような人生を送るのか、あらかじめ定められている、という考えです。
日本では昔、結婚する相手とは生まれた時に赤い糸で結ばれている、と言われていました。
お互い別々のところで生まれ、さまざまな経験をして育っても、その二人はいつか出会い、必ず結ばれると信じられていたのです。
それに対して、この世界の出来事は全て偶然によって支配されている、という考えがあります。
運命などはなく、その時、その時の偶然が重なって私たちの人生は作られる、という考えです。
運命と偶然、どちらがこの世界を支配しているのでしょうか。
これは簡単に答えの出せるものではありません。
私はそれぞれの考え方に一定の真理が含まれているように思います。
しかしどちらか一方が正解だ、とは言えません。
たとえばこの2年間、新型コロナで世界中が苦しみました。全世界で400万人以上の方が亡くなりました。
このパンデミック起こるのは、あらかじめ決まっていた、と考える人はいないでしょう。
また現在、ウクライナの戦争で多くの方が亡くなっています。
この戦争で亡くなるのが、その方たちの運命であった、などとは誰も言えません。
それはあまりにも思いやりに欠けた、無責任な発言です。
では逆にすべてが偶然によって支配されている、という考えはどうでしょう。
これもおかしな考えです。
人生はすごろくのように、運だけで決まってしまうことになってしまいます。
運だけで人生が決まると考える人はいません。
しかし運の働きを無視できないのも現実です。
先日、第1定期テストが終わりました。
テストで一番大事なことは、どれだけ勉強したか、つまり本人の努力です。
しかしそれだけでは決まらないところがテストにはあります。運です。
たとえば前の日に、たまたま勉強したことがテストに出たために、思った以上に点数がとれた人がいるかもしれません。
それは運がよかったのです。
テスト結果には運の働きも無視できない、と言えそうです。
このように運命と偶然の問題は複雑ですが、聖書はどのように言っているのでしょうか。
聖書は、神様がこの世界を創られた、と言います。
天地創造において神様は「光あれ」という言葉によって、世界を創造されます。
この世界のすべて、太陽や月、すべての星、水や光や風、地上のすべての植物や生き物たち、それらは偶然の存在ではなく、神様の「あれ(存在せよ)」という言葉によって創られたと考えます。
ですからこの世界の一切は、「存在せよ」という神様の揺るがない意志によって創られたものと言えます。
そして私たち人間は、神様の「存在せよ」という言葉に応答する者として創られているのです。
つまり私たちは偶然の存在ではない、しかし一般に言う「運命」によって支配されているものでもない、と聖書は言います。
運命とは、すでに定まっていること、人間に変えることができないものです。しかし聖書はそのように考えません。
私たち人間は神様の意志、願いに応答して生きて行くものと考えます。
偶然でも運命でもなく、神様との応答のなかで、私たちの人生、そしてこの世界の歴史は創られて行くと考えるのです。
少し難しい言葉ですが、これを「応答的存在論」と言います。
では神様との応答はどのようにして起こるのでしょうか。
それは神様の呼びかけに耳を傾けることから始まります。
しかしこの呼びかけは人間の声のように、耳に聞こえるものではありません。
それは一見、偶然と思える出来事や出会いをとおして、神様が私たちに思いを伝えてくださるものです。
そのようにして届けられる、神様の声を聞き取り、それに応答して生きて行くことが私たちには求められているのです。
ところで人との出会いは、自分で選べるものもあれば、選べないものもあります。
むしろ自分で選べない出会いの方がはるかに多いと思います。
たとえば自分の家族です。言うまでもなく、人に一番大きな影響を与えるのは、自分の家族です。
ところが自分で家族を選ぶことはできません。親を選んで生まれてくる子どもはいないからです。
誰でも気が付いたら、その家の子どもとして生まれ、育てられているのです。
敬和の友達も、敬和に来てたまたま出会った人です。出会おうと思って、出会えたわけではありません。
ですから出会いとは、すべてたまたま巡り合うことのできた、偶然の出来事ともいえます。
しかし聖書の神様は、この偶然の出会いのなかに、神様の呼びかけを聞き取ることを求めます。
そして、その呼びかけに応答することを求めます。
それは出会うことのできたこの人たちとの関係を、さまざまな経験をとおして、偶然以上の関係、意味あるものへと育てて行くことです。
心と身体をつかって、その関係をかけがえのないものへと育てることです。
それはこの家族と出会えてよかった、敬和でこの仲間と出会えてよかった、心からそう思えるようになることです。
今日の聖書には、「神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。」と記されています。
この箇所を読むとき私は「泥人形」をイメージします。
例えば子供が泥で作った人形を、心を込めて、やさしい言葉をかけながら、手で形を整えていると、突然、神様が息を吹き込んでくださった。
すると、その泥人形が生きるものとなった、というイメージです。
私たち人間の出会いも、初めはこの泥人形のようなものではないでしょうか。
こんなものでやって行けるのだろうか、すぐぼろぼろに崩れてしまいそうだ、そう思い不安になります。
しかし心を込めて、手をかけて関係を作って行くとき、やがてそこに命の息が吹き込まれます。
そしてその関係は、かけがえのないものへと変えられるのです。
フェスティバルを来週に控える今、この活動期間をとおして、敬和で出会った仲間との関係が、命の息を吹き込まれ、かけがえのないものへと変えられることを願っています。
そして、すばらしいフェスティバルを作りあげてください。