自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2007/11/01
聖書:詩編 49章10~12節
この夏見た映画に「憑神」があります。
主演は妻夫木聡、原作は浅田次郎という作家です。
時代は江戸時代の末期、主人公は徳川家の直属の家来であるものの貧乏な御家人の次男坊の彦四郎です。
彦小四郎は学問もそこそこできますし、剣術もかなりの腕前です。
それを見込まれて格上の家の婿養子となるのですが、結局は放り出されて、家に戻ってきて肩身の狭い生活をしています。
そんな時三囲(みめぐり)神社に祭られている神様を拝んで出世した人のことを知って、それではということで、たまたま近くにあった同じような名前のお稲荷さんを拝みます。
彦四郎は自分に幸福をもたらしてくれる、いわゆる福の神が出てくることを期待したのです。
ところが彦四郎のところにやってきたのはとんでもない神様たちでした。
最初は貧乏神です。貧乏神とはいうものの、姿かたちはそばにいるだけでこちらも幸せな気分になる大きな店の主人でした。
次にやって来たのは疫病神です。
疫病神は立ち振る舞いも立派な、みんながほれぼれするような相撲取りの姿をしてやってきます。
最後にやって来たのは死神です。誰かにとりついて死をもたらすはずの死神は、こちらが手を差し伸べてやらなければ死んでしまいそうな幼い女の子の姿でやってきます。どの神さまも人間にとっては有りがた迷惑なのですが、どういうわけか彦四郎のまっすぐな生き方にほだされて、ほんとうなら苦しめ命を奪うことが仕事なのに、心を動かしあれこれ手助けをしてくれるというストーリーです。
貧乏神や疫病神も、受けとめ方や生き方によっては、人生に豊かさをもたらしてくれる神様、福の神になるということを教えてくれるお話です。
これは聖書が示す神様、キリスト教の神様に通じた考え方です。
この話の途中で特にわたしがおもしろいと思ったところがあります。
それは死神に対して彦四郎が言った言葉です。
「死神であるお前も、相撲取りの格好をした疫病神も、大店の主人の格好をした貧乏神も、たしかに人間にはかなわない力は持っている。けれど、だからといって人間のようには輝いていない。死ぬことがなければ、命は決して輝かない。しかし、今の自分はまだ十分に輝いていない。だから残された命を必ず光り輝かせるから、もう少し時間がほしい。せめて3ヶ月4ヶ月お願いする」。
死神はこの彦四郎の言葉に涙を流します。
情け容赦ないはずの死神が思わず泣いたのは彦四郎の言葉が真理だったからです。
人間は永遠というものにあこがれます。
この世のでの命に限りがあるということ、必ず死ぬということを嘆いたりむなしく感じたりします。
けれど、彦四郎はそこに人間本来のすばらしさ、輝くことのできる理由があると考えました。
彦四郎はこうも言います。「人間が全能の神に唯一勝ることがあるとするなら、それは命に限りがあるということだ」。
これは永遠の命というキリスト教の考え方を否定しているようであって、じつは違う言葉で、キリスト教の「永遠の命」を生きることの大切さを教えてくれているのです。
限りがあるということ、終わりがあるということを不幸なことむなしいと考える人はなるべくそういうことから、目をそらして今さえ楽しめればいいと考えがちです。けれど、そういう考えが強くなればなるほど、今というときが楽しくない、むなしい気持ちになるのが現実です。
それを敬和学園の生活に照らし合わせて考えてみればピンと来るかもしれません。
たとえば40回生の中にはできるだけ早く敬和学園での生活を終わりたい、中には今すぐにでも辞めたいと思っている人がいるはずです。
それは40回生からすれば、輝いて見える存在である38回生が2年半前に感じていたことでもあるのです。
その38回生の多くの人が今どのような気持ちでいるでしょうか。
できることなら敬和学園での学校生活を続けたい。できるなら卒業したくない。この生活を続けられたらどんなに幸せだろうかです。
それらは2年半前には決して思えなかったことでしょう。
学校は基本的に1年をサイクルに繰り返します。
一つ一つの行事は3回あります。
38回生は3回目の行事に取り組むことになります。
ところが行事に取り組む38回生の気持ちは、3回目ではなく「最後の行事に」であるはずです。
この世での命に必ず終わりがあることを真剣に考えることによって、それは今がどんなに苦しくても、先が全く見えない暗闇の状況にあっても、それは永遠に続かないことを実感することでもあるのです。
そして限りがあるからこそ、人の人生は光り輝くことになるのです。