自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2022/05/23
校長 小田中 肇
【聖書:ヨハネによる福音書12章24節】
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
先週は定期テストと全校労作がありました。お疲れさまでした。それぞれ無事、取り組むことができたでしょうか。
金曜日、楽しそうに労作をする1年生を見ながら、私は2年前のことを思い出しました。
2年前のこの時期は、まだ休校期間でした。第一定期も全校労作も全て中止でした。今年は天候にも恵まれ、無事、実施できてよかったと思います。
新型コロナは、一つ大事な教訓を私たちに与えてくれました。
それは「日常」の大切さに、気づかされたことです。
普通に学校に来て、全校そろってチャペルで礼拝を行うこと、友達と楽しくおしゃべりしながらランチを食べること、全校労作や学校行事をいつも通りに行えること、休みの日には自由に外出して、友達と思いっきり笑いあえることなど、数え上げればきりがありません。
「日常」とは水や空気、太陽からの光に似ています。これらがなければ、どんな生物も生きていけません。
その一つでも失われれば、人類は滅びます。
にもかかわらず、それらはあって当たり前のものと考えがちです。
「日常」とは、それが失われて初めて、そのありがたみが分るものなのかもしれません。
人との関わりも同じです。
私は子供の頃、「親のありがたみは、親を亡くしてみて初めてわかるものだ」という言葉を聞いたことがあります。
そんなものかな、と当時は思って聞いていましたが、大人になって実際に親を亡くした時、この言葉は本当だと思いました。
会えなくなって初めて、一緒にすごした時間がかけがえのないものであったことが分ります。
失ってみて初めてその意味に気がつくとは、人間とは実に愚かな生き物です。
さて、今日は「安全の日」です。災害や事故に対する意識を高めるための日です。
敬和では、1年のこの日を「安全の日」と定めています。
私が敬和に就職してから経験した大きな災害に東日本大震災があります。
その日のことを少しお話しします。
2011年3月11日、午後2時46分でした。
その日は学年末定期テストの最終日でした。翌日は終業日という日です。
幸い、午前中でテストが終わったため、多くの通学生はスクールバスで帰宅しました。
残っていたのは寮生と部活動の通学生だけです。
地震はかなり大きな揺れでしたが、しばらくして収まったので部活動などは続けて行われました。
震源が宮城県沖と聞いて驚きました。新潟でこれだけ揺れるのだから震源に近いところは大変だろう、と思いました。
しかし、その時はまだことの重大さに気づきませんでした。
やがて、テレビを観ていた寮の先生が教務室に駆け込んで来て、「東北地方が津波で大変なことになっている」と言いました。
それで慌てて情報を集め、重大さに初めて気づきました。
新潟県内のJRが全て止まっていることが分かりました。
すぐに学校に残っている全校生徒をチャペルに集め、帰りの交通手段を確認しました。
村上や三条から来ている生徒がいたため、急遽、スクールバスを延長運転することを決めました。
また何人かの生徒は、先生方で手分けして車で家まで送りました。
それによって全員が無事に帰宅することができました。
今日の訓練では、緊急時のスクールバスのコースを確認しますが、それはこの時の経験をもとにしています。
またこの震災を教訓に、学校から帰ることができなくなった場合に備え、生徒全員分の非常食3日分を備蓄するようにしています。
ものごとには、それぞれ理由があるのです。
ところで、この5月の第一定期テスト明けの月曜日を敬和が「安全の日」と定めたのにも理由があります。
1973年、今から49年前の5月26日、Kさんという生徒が事故で亡くなりました。
この事故を忘れないために、この日を「安全の日」と定め、毎年、防災訓練を行うことにしているのです。
Kさんは1年生の男子寮生でした。入学して2か月足らずです。
この日は第一定期テストが終わった日で、夕食後、何人かでグラウンドでサッカーをしていました。
Kさんのお母さんは、この日の午後電話をして、「試験も済んだし、土曜日だから、帰らないの」、と聞いたところ、Kさんは「帰らないよ、家に帰るよりも、寮にいた方が楽しいもん」と答えたそうです。
これが親子の最後の会話になりました。
Kさんはゴールキーパーをしていました。味方が相手方に攻め込んでいるとき、つい退屈になったのでしょうか。ゴールポストに飛びつきました。
その現場を見ていた人はいませんでしたが、下敷きとなって、仰向けに倒れているのが発見されました。
すぐに病院に救急車で運ばれましたが、2日後、母親の徹夜の看病にもかかわらず、亡くなりました。
この時、敬和学園は創立からまだ6年目です。
どれほど学校全体が深い悲しみに包まれたことか、それは想像を絶します。
特に寮ではKさんの死が知らされると、寮生全員が自発的にホールに集まって祈祷会(お祈りの会)を開いたといいます。
その時のことを太田俊雄校長は次のように記しています。
祈祷会に出席して私が痛感したことの一つは、彼らの心の中に『生命の尊厳』に対する目ざめが体験されつつある、という実感であった。この体験は、K君が自分の死を通して教えてくれた、最大の教訓ではなかろうか?
ある生徒はむせび泣きながら次のように祈った、「K君、われわれは与えられる一日一日の命を大切に生きます。」
このように当時のことを記しています。
今日の聖書です。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
これはイエスが、ご自分の十字架の死を意識して、弟子たちに語った言葉として伝えられているものです。
イエスは、ご自身の死を通して、私たちに新しい命を授けてくださいました。
それは私たち一人ひとりが、与えられた人生において、豊かな実を結ぶためです。
今日の一日、私たちも、それぞれの命を大切に、共に歩む者でありたいと願います。