お知らせ

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2022/04/11

55回生入学祝福礼拝(2022年4月6日)「いのちの泉」

校長 小田中 肇

 

【聖書:ヨハネによる福音書4章13-15節】

イエスは答えて言われた。「この水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 

55回生の皆さん、ご入学おめでとうございます。

今日はこのようにして、入学祝福礼拝を行うことのできることを、大変嬉しく思います。

昨年は新型コロナのため、保護者の出席をご遠慮いただきました。

今年は保護者の皆様のご出席もいただき、共に入学を祝うことのできることに、あらためて喜びを覚えます。

 

さて、新入生の皆さんは様々な思いでここに座っていると思います。

友達ができるだろうか、勉強について行けるだろうか、先生はどんな先生だろう、様々な心配や不安でいっぱいのことと思います。

 

今日はこの3月に卒業した皆さんの先輩が残した卒業文集の中からいくつか紹介したいと思います。

これから高校生活を始めようとする皆さんにとって、参考になることがあると思うからです。

 

では紹介します。

ある男子・通学生の文章ですが、次のように始まります。

「3年前の春、良い大学に行くという野望だけを抱え、私は敬和学園高校に入学しました。第一志望の高校に落ちて敬和に来た私は、入学した喜びや敬和での楽しみなど持たず、ただ3年間勉強だけに時間を費やそうと考えていました。その頃の私は、入学式の日に母から記念写真を撮ろうと言われても、めでたいことではないと考え、撮らずに家に帰るほど、やさぐれていました。」

彼の高校生活の始まりはこのように、かなり否定的なものでした。ですから、もちろん自分から人と関わろうとはしません。

ところが無理やり彼を人の輪の中に入れようとする友達ができます。

その友達のおかげで少しずつ友達ができ、学校が楽しくなったと言います。

そして文集の後半では次のように書いています。

「私が敬和に来て変わったことは、人の長所と同じくらい短所を愛せるようになったことです。相手に嫌な部分があったとしても、共に過ごす日々の中でそれを超える良さがあることに気づき、嫌な部分も含めてその人は『良い人』なのだと思えるようになりました。」

人間的な成長を感じさせる言葉です。さらに次のように続けます。

「それと同時に、自分自身の嫌なところを受け入れ、私という存在を大切にすることができるようになりました。」

そして文集の最後を次のような言葉で締めくくっています。

「入学式のときは記念写真を撮らずに終わったけれど、今の私なら最後の記念写真を最高の笑顔で撮れると思います。」

 

次にある女子・寮生の文章を紹介します。

「私は遠くに行きたくて敬和に来ました。敬和を選ばなかったら後悔すると根拠もなく感じていました。私は、自分に自信がなくて、楽しむことよりも、嫌われないようにすることを何より考えていました。そして、そのような自分に疲れていました。遠くに行きたかったのは、そんな自分を置き去ってしまいたかったからかもしれません。」

このような思いで入学したのですが、自分が寮の先輩や友達に優しく受け入れられることに驚きます。

「私のことをまだ知らないはずなのに、みんなはどうしてこんなに私を大切にしてくれるのか不思議に思いました。」

これが彼女と敬和との出会いでした。

やがて学校や寮の生活を送るなかで、自分に自信がなくて、周りを気にしてばかりいた自分からも解放されて行きます。

「自分に自信がついたわけではありません。むしろ自信なんていらないということが分りました。必要なときに、自信をもっているように振る舞うくらいで十分だということに気がつきました。その代わりに、そんな自分と他者を認めて、肯定してあげることの大切さを敬和の3年間で身をもって実感しました。」

このような文章です。

 

二人の文章を紹介しましたが共通しているのは、敬和の3年間で自分が変えられたこと、そして自分と他人を認め、ともに大切な存在と思えるようになったことです。

敬和学園は自分探しの学校とよばれます。

二人が3年間、どのような自分探しをして来たかが伝わってきます。

 

ある女子生徒は敬和の印象をつぎのように書いています。

「私は敬和の3年間で、それまでよりずっと自分を肯定することができるようになりました。私にとって敬和はすごくあたたかくて居心地のよい場所です。理由は、都合がよすぎるかもしれないけれど、私のことを肯定してくれるからだと思います。きっとキリスト教の学校である敬和だから、疑うことなく私を肯定してくれて、私も私を肯定できるようになったのだと思います。」

 

キリスト教では、自分の好き嫌いを超えて、相手の人格を認めることを「愛」とよびます。

それは自分の好き嫌いという枠を超えて、相手をかけがえのない存在として認め、共に生きる者として受け入れることです。

そして人を愛することができるとき、同じようにありのままの自分を受け入れ、自分を肯定することができるようになるのです。

これから始まる敬和の三年間が、皆さん一人ひとりにとって、この「愛」について学ぶ三年間であって欲しいと願います。

 

今日の聖書です。

「命の泉」について記されています。

自分探しとは、この「命の泉」を求める旅です。

では、命とは何でしょう。

人や生き物には命があります。草や花、樹木にも命があります。

では、空や星、風や光には命がないのでしょうか。

たしかに生物的な命はないかもしれません。

しかし、それらにも私たちは命を感じることがあります。

他にもさまざまなところで、私たちは命に出会います。

 

皆さんは「人の住まなくなった家は、いたむのが早い。」と言われるのを聞いたことがあるでしょうか。

実際、空き家になった家は予想を上回る速さで荒れて行きます。

普通に考えれば、人が住まなければその分、家の消耗が減る訳ですから、家は長持ちするようにも思えます。

ところが実際は、そうではありません。家から命が消えたように、空き家は荒れて行きます。

しかし再びそこに人が帰ってきて、生活し始めると、活気が戻ってきます。

皆さんも部屋を片付けたり、庭の草取りをして花など植えて手入れすると、家や庭の表情が生き生きしてくるのを経験したことがあると思います。

 

人間関係にも同じような現象があります。

自分のことだけで、相手を思いやれない集団は何となくぎすぎすしてきます。

お互いに相手の行動を悪くとらえてしまい、心がバラバラに荒れて行くことがあります。

しかし何かをきっかけに、このままではいけないと気づき、お互いが相手を思いやることによって、少しずつ集団の雰囲気が変わって来る、そこに命が戻ってくる、そのような経験をしたことがないでしょうか。

 

考えてみればこれは不思議なことです。

自然に放置すれば家は荒れてしまう。人間関係も何もしなければ壊れて行く。

しかし人が住み始めると家に活気が戻ってくる。

壊れた人間関係も、互いを思いやり、努力することによって必ず変化が生まれる。

これこそが命の働きです。

そしてこの命の働きが、この世界を支え、守っているのです。

そこに秩序と意味を与えているのです。

ですから、「命の泉」とは、私たちに生きる喜びを、そしてこの世界に意味と輝きを与えてくれるものです。

 

今日の聖書でイエスは言われます。

「この水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 

敬和の3年間の学びをとおして、皆さんにはこの「命の泉」に出会って欲しいと思います。

それは皆さんのなかで泉となって湧きあがり、皆さんの命を育み、皆さんの人生を絶えることなく輝かせてくれるはずです。

55回生の皆さま、保護者の皆さま、本日はご入学おめでとうございます。

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