自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2022/03/16
校長 小田中 肇
【聖書:イザヤ書2章4~5節】
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
今日はいよいよ、2021年度終業の日です。
今年度も昨年度に引き続き、コロナのために大変な年でした。
このような状況の中でも敬和生は着実に成長できたと思います。
以前にもお話しましたが、水の流れがまっすぐな川で育った魚よりも、曲がりくねり蛇行した川で育った魚の方が、はるかに体長が大きくたくましく成長するといいます。
今年も私たちは時代という川の流れが大きく曲がりくねり、蛇行した1年を泳がされることになりました。
しかしこのような状況なかでも皆さんは諦めることなく、学校生活を意味あるもの、楽しいものにするために、それぞれが努力しました。
そしてこの1年を泳ぎきり、終業の日を迎えることができました。
皆さんはこの1年間で、確実にそれぞれが見違えるほど成長できたと思います。
特に先日行われた3年生を送る会では、皆さんの成長を感じることができました。
学年の出し物や全校生徒によるハレルヤ合唱です。
1年前、1年生は全員がまだ中学生でした。
その皆さんが学年の出し物では、3年生のために後輩として劇やダンス、合唱を歌いました。
見ていて私は1年生もすっかり敬和生らしくなったと思いました。
3年生も楽しそうに鑑賞していました。
2年生の出し物は、誰もがさすがだなと感心させられる内容でした。
チャペルの前半分に広がった2年生から響く合唱は、ハーモニーも美しく、歌詞には校歌の歌詞も含まれていました。
そこからは2年生全員のさまざまな思いが伝わって来るようでした。
そして感染状況を考慮して、屋外で行われたハレルヤの大合唱。
生徒会の皆さん、指揮者、伴奏者、パートリーダー、それぞれが多くの困難を乗り越えてつくりあげた合唱でした。
当日は3年生も一生懸命歌っていました。
このハレルヤ合唱は敬和の歴史に刻まれるものだと思います。
さて2年生の出し物として、卒業する52回生の名前の書かれた垂れ幕が披露されました。
映像では一人ひとり手書きで書かれる様子が伝えられました。
1,2年生の出し物が終わり、皆さんがハレルヤを歌うために外に出た時、入れ違いにそれまで友愛館で2部の映像を観ていた保護者の皆さんが、チャペルに移動してきました。
保護者はチャペルロビーに入るとすぐに、展示されたこの名前の書かれた垂れ幕の前に集まりました。
そして歓声を上げて自分の子どもの名前を探し、写真に撮っていました。
これも心のこもった素敵な企画だったと思います。
52回生の一人ひとりに名前と顔があり、それぞれに家族がいること、その一人ひとりの卒業を祝う皆さんの思いが伝わってきました。
話は変わります。連日ロシア軍によるウクライナへの攻撃、侵攻が報道されています。
爆撃された町や、突然日常が奪われた人々の悲惨な状況が伝えられています。
そこにはウクライナの人たちの様子が映されています。
ところが、ロシア軍の姿はあまり見えてきません。
見えるのはプーチン大統領とウクライナに侵攻したロシア軍の戦車の列ばかりです。
しかしあの戦車のなかにも兵士が乗っている。
彼らもさまざまなことを感じながら、戦車に乗っているはずです。
ところが彼らの顔が見えきません。
2月28日、ウクライナのキスリツァ国連大使は国連総会緊急特別会合での演説で、戦死したロシア兵が死の直前に母親と交わしたとするメッセージを読み上げました。
メッセージは兵士のスマートフォンに残されていたもので、以下のような内容です。
母親「どうして返事をくれないの。本当に訓練なの」
兵士「ママ、もうクリミアにはいない。訓練じゃない」
「僕はウクライナにいる。本当の戦争が起きている。怖いよ。一般市民も標的にしている。彼らは歓迎してくれると聞いていたのに、装甲車の下に身を投げ出して、僕らを通さないようにする。僕らをファシストと呼んでいる。ママ、とてもつらいよ」
このようなメッセージです。2月28日といえば、まだこの戦争が始まって間もない頃です。
この兵士の言葉からは、突然戦場に送られたことに対する戸惑いと、一般市民を殺したくないという苦しい叫びが伝わってきます。
その言葉からは兵士の顔や表情が見えてくるようです。
ウクライナ大使がこれを公表したのは、ロシア軍が若者たちをだまして戦場に駆り立てている状況を国際社会に訴えるためでした。
情報戦の一環です。
もちろんロシア政府は、すぐにこれをウクライナによる捏造だといって否定しました。
しかしこのメッセージが本当なら多くのロシア軍兵士には、戸惑いながら戦い、傷ついた人、亡くなった人が他にもたくさんいるはずです。
戦争の悲惨さはここにあります。
戦争とは敵と味方が殺し合うことです。
そのとき相手を人格ある存在としては見ないし、見てはいけない。
なぜなら人格あるものと見たならば、殺すことなどできないからです。
20世紀を代表する哲学者の一人、エマニュエル・レヴィナスは、「他者の顔に直面するとき、人は、その他者を殺すことはできない、」と言います。
人間の顔は、相手に「殺してはいけない」という戒めを語りかけてくると言うのです。
人を殺すために、この世に生まれてくる子どもはいません。
人は皆、幸せになるために生まれてくるのです。
ところが戦争においては、敵、味方にかかわりなく、それぞれに名前と顔があるにもかかわらず、ないかのように相手と戦わなければなりません。
戦争がもたらす悲劇は計り知れません。
今日の聖書です。
「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」
これは紀元前8世紀のイスラエルの預言者イザヤの言葉です。
このイザヤの言葉は、現在アメリカニューヨークにある国連本部ビルの玄関前の石碑に刻まれています。
イザヤは、戦争の武器である剣や槍を、平和の道具である鋤や鎌に打ち直すそのような時が必ず来ると預言しました。
この言葉は今日に至るまで実現されていませんが、だからといってそれを無意味なものとして片づけてはいけない。
この言葉は今も世界が向かうべき方向を私たちに指し示してくれています。
私たちはこのイザヤの言葉に支えられて、将来実現される平和のために、それがどんなに小さなことであっても、今なすべきことをなしていく者でありたいと願います。