自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2011/05/16
3月11日に東日本大震災が起こりました。
この地震によって引き起こされた津波の凄さが日に日にわかってきます。
絶対大丈夫、どんな大きな津波が来ても越えることがないと信じられていた防潮堤、堤防の上を、今回の津波は軽々と越えて多くの家や車を飲み込み、そして多くの人の命をさらっていきました。
津波の被害の大きさに対してよく使われる言葉、それが想定外という表現です。
そして、この想定外という言葉が頻繁に使われているのが、福島第一原発の事故です。防潮堤を超えるような津波がやってくると想定していなかった。外部電源がすべて失われ、原発を冷やせなくなるような事故を想定していなかった。
想定外という言葉に含まれる気持ちは何でしょうか。
それは何百年に一度の大きな自然災害だからしかたがないじゃないか、ではないでしょうか。
それは予想もしない大きな自然災害だから、重大な事故が起きたとしても、それは自分たちの責任ではないという考えにつながっていきます。
事故が起こった最初の頃は、そうかもしれないと思った人も多かったでしょう。
ところがだんだんとわかってきたことがあります。
それは福島第一原発の事故の大部分が自然災害というよりは人間の過ちによって引き起こされたものだということです。
原発を冷やすための電源が失われたことすぐにわかったにもかかわらず、東京電力は原子炉をダメにするのをためらって、海水を注入することをちゅうちょしたようです。そうしたこともあって水素爆発が起こり、放射能が大量に漏れ、海を汚し、周辺に住む多くの人が家と土地を失い、仕事を失うことになりました。
しばらく前の調査や研究によって、津波によって重大事故につながる恐れがあるとのレポートが出されていたのですが、そのことを政府も東京電力も真剣に受けとめていなかったこともわかってきました。
それにもかかわらず、想定外という言葉を連発しながら、東京電力も政府も出来るだけ責任逃れをしようとしているように見えます。
原発の事故がますます深刻になっていくことを考えるとき、責任逃れで使われる想定外という言葉が責任ある人たちによって安易に使われることは許せません。
そこでもう一つ忘れてはならないのは、原発の事故は事故を起こした企業と政府の問題だけではなく、それを作ることを許したわたしたち一人一人の問題でもあるということです。
原発を作ることを許すという意味は、その原発によってつくられた電気を当たり前のように使って生活しているということです。
恩恵を受けているということです。
電気を大量に使う生活を当たり前のようにすることが、原発の存在を認めることになるわけです。
ところで責任逃れの意味で使われる想定外という考え方を、わたしたちも日常生活の中でしていないでしょうか。
想定外をふだん使う言葉で置き換えるとどのような言葉になるでしょうか。
一番ぴったりするのが、「自分なりに」あるいは「それなり」にです。
「自分なりにやってみます」「自分なりにがんばっています」。
「学校生活をあらためたらどう」「もう少し真剣に勉強に取り組んだらどう」と問われたときに、使われる返事としてよく使われるのが「自分なりにがんばっています。それなりにやっています」です。
原発事故に対する想定外という言葉が、真剣に取り組んでいない、責任逃れの意味を持つように、「それなりに」「自分なりに」がいかに意味のない言葉であるかを、わたしたちは自覚する必要があります。
「それなりに」「自分なりに」と言っている間は何も変わらない、自分が願うような成長はない、未来はないということです。
そして、想定外、自分なりに、それなりに、ではどうにもならない、それではダメだと自ら示した人がいます。
それは十字架に架けられ殺されたイエス・キリスト、イエス様です。
4月24日の日曜日はキリスト教にとって最大のお祝いをするイースターで、世界中の教会でイエス様の復活を祝う礼拝が行われました。
イエス様が十字架に架かって殺されたのは、すべての人を救うためであり、この世界に本当の平和をもたらすためであったと信じるのがキリスト教です。
イエス様が十字架に架けられたとき、ある人が言いました。
「自分の命、体を救えないものが、他の人間を救えるはずがない。もし十字架から逃げ出せることを見せてくれたら、お前が人を救う力があることを信じてやろう」。
そうしたヤジに応えることなく、十字架で殺されたのが今日の聖書の箇所です。
イエス様が殺され死んだことによってすべては終わったと思われました。
ところがイエス様を捕えて十字架につけたローマ軍の隊長は、イエス様の情けない叫びと何もできないかのように見える死にざまを見て思わず叫んだのです。
「本当に、この人は神の子だった」。
ローマ軍の隊長は、十字架に架かって殺されたイエス様を見て、この方こそすべての人を救い、この世に平和をもたらす存在であると信じたのです。
そして彼はそれから以降、生き方を変えることになりました。
イエス様の何がローマ軍の隊長の生き方、人生を変えることになったのでしょうか。この場面で十字架に架かっているイエス様の姿は実に格好悪いです。
「わが神わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか」はどう考えても情けない言葉です。
にもかかわらずローマ軍の隊長が信じることになったのか、それはイエス様が本気だったからです。
表面的には格好悪く情けなく見えても、そこに、人を救い世界を平和にする本気を見たから、ローマ軍の隊長は人生を変えることになったのです。
わたしたちが今何より持たなければならないのは、この本気です。
政府も東京電力も「本気になって」原発事故の終息向けて取り組まなければなりません。
東日本大震災の被災者支援に本気で取り組まなければなりません。
そして、敬和学園で学校生活を送る一人ひとりもまた本気にならなければなりません。本気で学習に取り組む、本気でフェスティバルに取り組む、本気で人間関係を作ろうとする、そこに、自ら十字架に架かり、殺され、そして復活をされたイエス様の力、十字架の力が働かないはずはないのです。
本気で取り組む、そこに願いと祈りは聴かれます。
変わりたい自分に変わり、周りも変わるのです。
イエス様は「それなりに」や「自分なりに」でもって自分を縛りごまかし何も変えられない一人一人に対して、本気とは何かを示してくださいました。
本気になることを求められたイエス様の、その求めに応え、ぜひ本気になって自分の生活と被災者支援の活動に取り組みたいと思います。