自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2022/03/01
校長 小田中 肇
【聖書:ヨハネによる福音書8章12節】
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。」
52回生のご卒業を心よりお祝いいたします。
皆さんの過ごした3年間は新型コロナ感染症のために、今まで経験したことのない学校生活になりました。
感染を防ぐために三密を避けることが絶えず呼びかけられました。
2年生に進級したときも3か月の休校期間が設けられ、新入生との出会いは先延ばしになりました。
休校期間が明けて学校が再開したときは、寮生と通学生との分散登校になり、久しぶりに会えた仲間とも距離をとらなくてはいけませんでした。
それは人との関わりを大切にしている敬和学園として、大変、厳しい状況でした。
しかし新型コロナがもたらしたものは悪いことばかりではありません。
コロナ禍だからこそ、私たちは日常の大切さに気付くことができました。
人と会って話をしたり一緒に食事をしたり遊んだりすることが、こんなに大切なことなのかと教えられました。
例年ならば当たり前のこととして行われていた学校行事も、実施できたときは、特別、貴重な経験に感じられました。
52回生がつくりあげたフェスティバルは素晴らしいものでした。
幸い天候にも恵まれ、エンディングでは学校全体が一つになるのを感じました。この日のことは全校生徒の心に刻まれていると思います。
コロナのために自分たちは特別なことは何もできなった、と思う人もいるかもしれません。
しかし、それは違います。こうして卒業の日を迎えることができたのです。今日の日を迎えるまで、皆さんはそれぞれが人知れず、毎日小さな闘いを闘ってきはずです。
何のための闘いでしょうか。普通に生活するための闘いです。
普通の生活とは、私たちの日常のことです。
日常の生活それ自身が価値のある、輝いている時間なのです。
そのことに気が付きました。
そのためにそれぞれがこのコロナ禍の中で、小さな闘いを闘ってきたのです。
この経験は近い将来コロナが収束し、日常がもどったとき、皆さんのなかで必ず大きな花を咲かせてくれるはずです。
ところで皆さんが巣立ちゆく社会は、今までにないほど様々な分断と不公平な格差が拡がり、気候変動などの環境問題も深刻です。
最近の異常気象は誰の目にも明らかで、このままでは取り返しがつかない状況になることは明白です。
先進国を中心に豊かな暮らしを求め、国民総生産を増大させていく中で、経済的格差が拡がり、それとともに地球環境に大きな負荷を与え続けた結果です。
しかもその被害は先進国ではなく、貧しい途上国の人々を襲っています。
このように世界には分断が進み、ロシアによるウクライナへの侵攻など、今までの国際秩序も破られようとしています。
ところで日本人は学ぶときには大きな力を発揮するが、現状に満足し、学ぶことをやめるときに失敗を犯すといいます。
かつて昭和の軍国主義者たちは、遅れたアジアの国々を教え、導くと称して戦争を始めました。
彼らからは、明治の指導者たちのような謙虚に学ぶ姿勢が失われてしまっていたのです。
しかし1945年の敗戦を機に、日本人はそれまでのあり方を反省し、再び熱心に学び始めました。
二度と戦争を行わない、平和な民主主義国家を作るために、人々は立ち上がったのです。
そのときの思いは、当時制定された日本国憲法、教育基本法の条文に表現されています。
今年で戦後77年になります。もちろん様々な失敗や破れ、取り組まなければならない課題はたくさんありました。
しかし幸い、日本は決定的に大きな過ちは犯してはいません。
それは敗戦の焼け野原から新しい平和国家を造ろうとして立ち上がった、多くの人々とそれに続く人たちの努力があってのことです。
だからと言って、このままでよいということではありません。
私たちは今再び、学ばなければならない時を迎えているのだと思います。かつてのようにアメリカやヨーロッパから学ぶだけではなく、アジアやアフリカ、イスラムの国々からも学ばなければなりません。
また大人たちからだけではなく、幼い子供たちの生き方や彼らの感性からも学ばなければなりません。
さらに人間だけではなく、この同じ地球に人類よりはるか昔から生きてきた、他の生き物たちの生態からも学ばなければなりません。
そこには持続可能な生き方や、平和な世の中をつくるためのヒントがたくさん隠されているはずだからです。
52回生の皆さんは卒業後どのような立場になっても、謙虚に学び続ける人であってください。
そしてそれぞれの場にあって、日常を大切にし、この世界の一隅を照らす光の子として歩んで欲しいと願います。
今日の聖書です。
イエスは言われます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。」
では、世の光、命の光を持つ人とは、具体的にどのような人でしょうか。
勉強や運動ができる能力の高い人でしょうか。
それともいつも明るく、前向きな人、みんなの模範となるような人でしょうか。
もちろんこのような人になることは素晴らしいことです。
しかし聖書のいう命の光を持つこととは少し違います。
聖書のお話しは全体の文脈の中で、それがどのような位置に置かれているかを見ると、意味がよく分かることがあります。
聖書はさまざまなお話しを適当に並べているのではなく、その順番についても考え抜かれているからです。
今日の聖書は、その直前にある罪を犯した女性のお話しが置かれています。
そのお話しを紹介します。
ある女性が男女関係において過ちを犯し、捕らえられました。当時の法律ではそのような女性は石で打ち殺されることになっていました。
そしてイエスのもとにこの女性が連れてこられます。
イエスを試すためです。
彼らはイエスに質問します。「こういう女は打ち殺されなければならないと定められていますが、あなたはどうお考えですか。」
イエスが何と答えるか、みんなが注目します。
ところがイエスは質問に答えることなく、かがみ込み、指で地面に何かを書き始めました。
やがて彼らがしつこく問い続けるので、身を起こして言われます。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女性に石を投げなさい。」
これを聞いた者は年長者から始まって一人また一人と立ち去ってしまい、最後にイエスひとりと真ん中にいた女性が残ります。
イエスは言われます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
婦人は答えます。「主よ、だれも。」
イエスは言われます。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
光の子として生きるとは、このようなイエスの生き方に従うことです。
それは単に立派な模範的な人になるということではありません。
弱い人、苦しい立場にある人の傍らにあって、イエス・キリストがそうであったように、世の光、命の光となることです。
今日、巣立ってゆく、52回生の皆さんはコロナを経験し、それぞれが様々なことを考えたと思います。
コロナ後の世界には必ず新しい風が吹きます。
それは可能性に満ちた新しい時代です。
皆さんがそれぞれの場において、この世界の一隅を照らす、光の子として旅立たれることを願います。