お知らせ

お知らせ

2022/01/31

今週の校長の話(2022.1.31)「腰に帯を締め、ともし火をともす」

校長 小田中 肇

【聖書:ルカによる福音書 12章35~36節】

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」

 

今週はスキー教室が行われる予定でしたが、新型コロナのために延期になりました。残念ですがこの1週間も有意義にすごしたいと思います。

 

今回のオミクロン株の感染力は強く、連日新潟市内の高校でも感染者が出て、休校になっている学校もあります。既に日本全国では270万人が感染しましたが、全人口の40人に一人が感染したことになります。

誰がかかってもおかしくない状況ですが、見方を変えれば感染することがもはや特別のことではなくなってきたということです。

 

敬和では教員からは感染者が出ましたが、幸い生徒からは出ていません。皆さんが協力して感染対策をしていることにもよりますが、それ以上にたまたま出ていないだけ、今まで運がよかった、そのように謙虚に考えるべきだと思います。

オミクロンの感染力からいって、身近に感染者がいれば感染は防ぎようがありません。だから感染してもその人の責任とはいえません。たまたまそこに居合わせたから感染したのです。

ですから感染者が出てもそれをその人のせいにするのではなく、自分はたまたま運がよくて感染していないだけ、場合によっては自分が感染していたかもしれないし、むしろ自分の代わりにその人がコロナで苦しんでいる、そのような思いやりの心をもってこの状況に対応したいと思います。

 

さて2年生は今週進路デイズがあります。3年生が自宅学習期間に入り、いよいよ2年生も卒業後の進路について本気で考えなければならない時期になりました。

ところで敬和の卒業生のなかに、次のような話しをしてくれた人がいます。

敬和を卒業して離れてみると、敬和の中にいると当たり前に思っていたことが、それが当たり前ではないことに気づかされる、そういうことがたくさんあったというのです。

 

私はその一つに敬和の学習があると思います。新潟県内の私立高校では、ほとんどの学校が特別進学クラスを設けています。

優秀な生徒を集めて受験でよい結果を出すことを目的にしたクラスです。

もちろん敬和にはありません。敬和生ならば、特進クラスなど敬和的ではない、と直感的にわかるはずです。

ところが敬和以外ではそうではありません。私立ならば特進クラスがあって当たり前という感覚です。

 

敬和は受験勉強を学校の中心には置かない、創立のときにそうかたく心に決めた学校です。そしてそれを今も貫いています。

キリスト教に基づく人間教育を学校の中心にしよう、そして高校生の年代に経験すべきことをたくさん経験して、人間的に豊かにそしてたくましく成長してほしい、そう願って創られた学校です。

敬和生ならば皆、感覚的にそれが分っています。しかしそういう学校は数少なくなってきています。

 

ところでこのことを,敬和は勉強しなくてもよい学校なんだ、と誤解してはいけません。

むしろ人間的成長に必要な学びに、他校の受験生以上にしっかり取り組んで欲しいと願っています。

2,3年生になると個人選択制カリキュラムになるのもそのためです。それぞれの進路、適性、習熟度に合わせて、主体的に学ぶための制度です。

 

 

敬和の卒業生の中には、大学で他の受験勉強中心でやってきた学生よりもよく勉強すると高く評価されている人が意外と多いのです。

以前キリスト教の大学の先生に研修会などでご一緒したとき、敬和の卒業生の様子を聞いて歩いたことがあります。

他の高校とちがって厳しい受験勉強を経験しないで、推薦で入学した敬和の生徒のことが心配だったからです。ちゃんと大学の勉強について行けているのか気になったからです。

ところが多くの先生が、「敬和の卒業生はよく勉強していますよ」と言ってくださいました。少しほっとしました。

「大学に行くために、高校でやっておいた方がよいことがあったら教えてください」と私が聞くと、ある先生が「英語はしっかりやって来た方がいいですよ」と教えてくれました。

 

私はこのことを次のように分析してみました。

多くの敬和生は受験勉強をしてこなかったことに対する不安と焦りから、なんとか大学の勉強について行くために1年のときから必死で勉強する。

それに対して受験勉強をたくさんやって来た人たちは、大学に合格すること自体が目的だから、入学したらあまり勉強しないで遊び始める。

おそらく敬和生は、大学に入ってから本当の勉強の面白さに目覚めるのかもしれない。

そして3年、4年とたつうちに、他の高校の卒業生よりも実力をつけて行く人が意外と多いのではないか。

これは敬和で蒔かれた種が卒業してから芽を出し、大きく育って行くことだと思います。

 

しかし英語だけは違う、英語は今までの積み上げがものを言う、受験勉強で鍛えられてきた学生にかなわない。

推薦で入学した学生のそこが弱点だ、だから高校時代に英語だけは他の受験校の生徒並みの勉強をしてきて欲しい、そのように大学の先生は言われたのだと思います。

貴重な助言だと思いました。

敬和生の勉強の弱点として、テストが終わるとやったことをすぐ忘れてしまう、ということがあります。そのため知識が定着しない、積み上げられた知識量が少ない。

私たちはこのことを自分たちの弱点と意識して、それを克服するような学びをしなければならないと思います。

 

さて、今日の聖書です。背景を簡単に説明します。主人がある夜、結婚式に出かけます。しもべたちは腰に帯を締めて、ともし火をともし、主人の帰宅を待ちなさい、というのです。

ここで主人とはイエス様のことです。そして、しもべは私たち人間です。

 

私たちの人生は、私たちの力だけでは完成しません。不完全のままです。

それぞれの学年を終えようとしている皆さんも、多くは不完全さを抱えているのではないでしょうか。

完璧な1年をすごしたと思える人はいないと思います。

私たち人間の業(わざ)は神様の力が働いて初めて完成するものだからです。

 

たとえば今、私はこうしてみなさんにお話しをしています。

なんとか敬和の教育や聖書の言葉を伝えたい、そう思って話しています。

しかし全員の心に届く話しなど、私の力では不可能です。

もし皆さんにお話しが届くとすれば、それは私の足りない部分や間違えていることを神様が秘かに正し、補ってくださってくださるときです。そのとき初めてこのお話しは完成します。

 

「神様が訪れる」とは、これと似ています。神様は私たちのあやまちや足りないことを正し、補ってくださいます。不完全な私たちを、本当の意味で完成させてくださるのは神様です。

だからいつ神様があなたを訪れても、あわてて隠れたりしなくてよいように、その日のために備えて生きなさいと言うのです。

「帯を締め、ともし火をともして待ちなさい。」

それは一日一日をかけがえのないものとして、神様を待ち望みながら生きることです。そのことを今日の聖書は私たちに求めているのです。