自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2009/01/01
聖書: 箴言 24章 16-18節
しばらく前のことですが、天木直人という人の話を聴く集会に参加しました。
俳優の藤木直人ではありません。一字違いです。
天木さんは5年前に話題になった人です。
5年前というのは米国がイラクに戦争を始めた時です。
その時、天木さんはイラクのすぐ近くの国レバノンの特命全権大使でした。
つまり天木さんは外務省の超エリートだったのです。
天木さんが何をして有名になったかといいますと、2003年3月14日にレバノンから当時の小泉首相、そしてこの間首相を辞めた当時官房長官であった福田さんに電報を打ちました。
「今からでも遅くない」という内容の、日本はイラク攻撃反対の意志を示すべきだとの電報でした。
その1週間後米国はイラクに攻撃を開始しました。
小泉首相は即座に米国の攻撃を支持するとの表明をしました。
同じ中東にいて米国の攻撃によって罪のないイラクの人たちが殺されていくのを見て、天木さんは3月24日に再び「小泉首相は間違っている、日本のとるべき行動は一国も早く戦争を終わらせることだ」と2度目の電報を打ちました。
するとその直後に外務省の偉い人から「外務省を辞めるつもりで戦争反対の電報を打ったのか」との電話がありました。
しばらくして、帰国命令が出て、5ヵ月後の8月29日に大使を解任され、結局外務省も辞めさせられることになったのです。
天木さんは周囲の人から、外務省の大使が首相に対して、抗議の電報や文書を送ればどうなるのかわからなかったのか、あなたはバカなことをしたと、厳しい言葉を浴びせられたそうです。
子どもの頃から勉強がよくできて、大学在学中に外務省の試験を通るような頭のいい天木さんに、それがわからなかったはずはありません。
それならどうして、それまでのすべてを捨てるように、そして前途明るい将来を棒に振るような行動をとったのでしょうか。
天木さんはレバノンの大使として働き始めた2001年から米国の全面支持を受けたイスラエルがレバノンを攻撃し、そのために罪もない人がどんどん殺され、家族を失うという現実を目の当たりにして、軍事力では決してテロはなくならない、それどころか逆に人々の中に憎しみを増殖していく現実をみたのです。
それがイラクにも起ることを、人間としてどうしてもゆるせなかったからだそうです。
もし自分が大使になってレバノンに行かなかったら、そのような態度や行動はとらなかっただろうと、今も外務省のエリートとして、何も考えずにいただろうというのです。
さらにたまたまレバノンに赴任してきたことから、自分はそうした行動をとらずには得なかったのだと話されました。
天木さんが当時の小泉首相に、米国のイラク戦争に反対すべきとの電報を打ったのは決して自分のためではありませんでした。
天木さんは自分のためではなく、他者のためにということをその時優先して、電報を打ったのです。
他者のためにということを第一に考えた時、それまでの自分とは違う行動や活動が生まれてきたのです。
「たまたま」ということ、キリスト教は神様の導き、神様の意志が働いたと考えます。
天木さんが戦争に協力すべきでないという電報を打たざるを得なかったのは、それは神様の意志に従ったからということです。
敬和学園の39回生は、今共通の認識を持っているのではないでしょうか。
それは敬和学園に通う日数の数え方です。
あと20日あまりしかないとの言い方には、学校生活に積極的に取り組みたいとの思いが強く含まれています。
それは様々な出来事で詰まっている敬和生活の3年目を迎えている人たちだけが持つことのできる感覚といえます。
それに対して40回生、41回生の中で今、敬和学園を辞めたいと考えている人、そういう人がいると思います。
敬和を辞めたいという理由、他の学校に変わりたいという理由はそれぞれ違うでしょう。
しかしそういう思いになっている人に共通していることがあります。
それは頭の中、考えていることが「自己中心」になっているということです。
自分にとって敬和はつまらない、自分にとって楽しくない、自分が優先され、その自分に心がとらわれすげて、そのために周囲の人の言葉や忠告、そしてやさしさを受け付けない、感じなくなっているのではないでしょうか。
そこで気がつかなければならないのは、人間というのは不思議な存在で、自分中心になればなるほど自分が嫌になっていく、自分がだめになっていくということです。
たまたまレバノン大使になった天木さんは、その現実から逃げることなく、その現実に自分の方法で真正面からぶつかりました。
天木さんは自分中心でない言葉、行動をとることによって、外務省のエリートの立場は失いましたが、生きていく上で一番大切な人間性を失うことがありませんでした。そして天木さんの存在に、人間としてどのように生きればいいのかと、多くの人が勇気を持つことができたのです。
目の前の困難から逃げ出さないことの大切さを教えられました。
敬和学園は一人ひとりを神様が選んでくださったと考える学校です。
しかも選ばれた理由はわからない、つまり選ぶ理由は神様の側にあると考える学校です。
今マイナスなことばかりで体も心もいっぱいいっぱいになってしまう人がいるとしたら、その人はぜひ自分の立つ場所を変えて考えて見てほしいと思います。
自分中心という立場から他者中心に変えるということです。
神様が選んでくださったということは、神様が自分を必要としてくださっているということです。
自分の存在が他の人に必要とされているということです。
その場合、どのように自分が必要とされているのか自分でわかるわからないは問題ではないのです。
わからないから必要とされていないと考えるのは間違いです。
必要とされている自分の存在をわかるわからないにかかわらず受け入れていく、そこに新たな道が拓かれていきます。