自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2021/12/22
校長 小田中 肇
【聖書:詩編 126篇 5-6節】
涙とともに種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
今日は後期の終業日で、いよいよ明日からは冬休みです。8月から今日までを振り返るとき、こうして後期終業を迎えることができたこと嬉しく思います。
8月中旬からデルタ株の感染拡大が始まり、新潟県内でも多くの学校で学級閉鎖がありました。幸い、敬和では学級閉鎖や休校など行われませんでした。
感染予防の対策を行いながら修養会も実施できました。特に2年生にとっては初めての宿泊行事でした。実施できて本当によかったと思います。
10月に入りコロナが突然、収束し始めました。この日本特有の現象に、専門家もその理由は分からない、と言っています。しかし、そのおかげで学校の日常が少しずつ戻ってきました。
それを実感できたのは、毎朝の全校礼拝です。前期は学年ごとにチャペル礼拝を行っていましたが、後期に入ってからは全校で行いました。文化委員長が前に立つと、チャペルいっぱいの全校生徒が静かになります。敬和の日常が戻ってきたことを感じます。
礼拝といえば、今年は生徒のお話しがすばらしかったと思います。
10月にお話しをしてくれた3年生のSさん、そして先週、聞いたTさんのお話しは、どちらも自分探しをテーマとするすばらしいものでした。
あのようなお話しを、全校で聞くことができてよかったと思います。
この3か月間がどのようものであったか、それは一人ひとりにとって違うでしょう。
充実した3か月をすごせた人もいるでしょう。それは素晴らしいことです。しかし自分一人の力ではなく、周りの支えがあったことも忘れてはいけません。
それに対して「自分は何もできなかった」と思っている人もいると思います。以前にもお話ししましたが、このコロナが教えてくれたことの一つに「日常の大切さ」ということがあります。
コロナによって日常が失われて、改めてその大切さに気付かされたのです。
「何もできなった」と思う人も、人知れず毎日小さな闘いを闘ってき筈です。何のための闘いでしょうか。
普通に生活するための闘いです。普通の生活とは、私たちの日常のことです。だから皆さんが普通に学校生活を送っているだけだとしても、それ自身簡単なようでいてとても価値あることなのです。それぞれが心のなかで、小さな闘いを闘ってきたはずだからです。
これから冬休みを迎える皆さんに、今日は宮澤賢治の童話「学者アラムハラドの見た着物」を紹介したいと思います。
宮澤賢治と言えば、風の又三郎や銀河鉄道の夜などの童話が有名ですが、今日紹介するものはあまり知られていません。私も齋藤孝さんという教育学者が、ある本(「教育力」岩波新書)の中で触れていて初めて知ったものです。
学者のアラムハラドは、11人の子どもを教えていました。アラムハラドの塾は林の中にありました。ある日アラムハラドは火や水について話し始めます。
火というものは軽いもので、いつでも上に、上ろう上ろうとしている。そしてそれは明るいもので照らそう照らそうとし、いつでも熱く、乾かそうとしている。
水は物を冷たくするし、また物を湿らし、いつでも低いところへ下ろうとする。
こうした火や水の性質は、どうしてそうかと言うならば、それはそういう性質のものを火や水と呼ぶのだから仕方がない。
それからみんなは小鳥をよく知っている。小鳥は飛ばずにはいられない。また一生懸命に鳴く。これらの鳥のたくさん鳴いている林のなかに行けば、まるで雨が降っているようだ。
このように小鳥はよく飛び、よく鳴く。小鳥は飛ばずにはいられないから飛び、鳴かずにはいられないから鳴く。生まれつきそう決まっているのだ。
このように話したあと、子ども達に次のような質問をします。
「けれども一体どうだろう、小鳥が鳴かないではいられないように、人はどういうことがしないではいられないだろう。人が何としてもそうしないでいられないことは、一体どういうことだろう。考えてごらん」
するとタルラという子供は、「人は歩いたり、ものを言ったりいたします」と答えます。
アラムハラドは、「よろしい。お前はよく答えた。確かに人は歩かないではいられない。そして考えたことを言わないでいることも辛いことだ」
そのようにタルラの発言を肯定的に受け止めます。
次に、ブランダという子どもは、「人が、歩くことよりも、言うことよりも、もっとしないではいられないのは、善いことです」と答えます。
アラムハラドは、「そうだ、それは私の言おうと思っていたことだ。全ての人は善いこと、正しいことを好む。」そのように答え、善と正義こそ、人がしないではいられないことなのだ、と子どもたちに教えます。
普通ならばここで終わるところですが、アラムハラドはセララバアドという子どものふとした表情に目を留めます。
「セララバアド。お前は何か言いたいように見える。言ってごらん。」
セララバアドはびっくりしましたが、すぐ次のように答えます。
「人は、本当に善いことが何であるか考えないではいられません。」
これはアラムハラドの想定を超えた答えでした。アラムハラドは目を閉じます。すると暗闇のなかで、黄金の葉をもった樹木が並んで、梢(こずえ)をさんさんと鳴らしている光景が浮かびます。
そして答えます。「そうだ、人は真理を求める。本当の道を求めるのだ。人が道を求めないでいられないことは、ちょうど鳥が飛ばないでいられないと同じだ。人は善を愛し、道を求めないではいられない。それが人の性質だ。」このようなお話しです。
敬和学園は自分探しの学校です。セララバアドが言った、本当に善いことが何であるか考えること、これは広い意味の自分探しといえます。
「鳥が空を飛ばないでいられないように、人は本当の自分を探さないではいられない、なぜなら、それが人間の本質だから」、この童話は、そのように私たちに教えてくれます。
今日の聖書です。「涙とともに種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。」チャペル前の掲示板に秋から貼ってあるものです。
意味を説明する必要はないと思います。どんな時にも、希望をもって、生きる私たちでありたいと願います。
それでは楽しい冬休みとよい年をお迎えください。新学期、元気な皆さんと会えることを楽しみにしています。