お知らせ

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2021/12/06

今週の校長の話(2021.12.6)「ケイワ・ピース・プロジェクト」

校長 小田中 肇

【聖書:ヨハネによる福音書 1章14節】

言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

皆さんは神様というと、どのようにイメージするでしょうか。白いひげを生やしたおじいさん、それとも、目には見えない、何か精神的なものでしょうか。簡単なようで、なかなか答えにくいと思います。

 

ブルンナー博士というアメリカ人の先生が、ある講演会で次のような質問をしました。

「人には皆、顔があります。では、神様には顔があるでしょうか。皆さん、どのように考えますか。」

聞いていたのは、日本人の牧師先生たちでしたが、しばらく沈黙が続きました。一見、子どもじみたこの質問に、戸惑っていたのかもしれません。

 

博士は次のように答えられました。「私はあると思います。イエス・キリストのお顔がそれです。」その瞬間、会場全体から、なるほど、という共感のざわめきが起こったそうです。

これは、先日、読んだ関田寛雄さんという方の本(「目はかすまず、気力は失せず」)の中で紹介されていたエピソードです。

 

さて、今日の聖書も謎めいた言葉から始まります。「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

言(ことば)とは、神様の言葉です。神様の言葉が肉体となって、私たちの間で生活した、というのです。どういうことでしょうか。

聖書の授業をよく聞いている人ならすぐ分かると思います。

言(ことば)とは、イエス・キリストのことです。つまり、イエス・キリストとは、神様の言葉が肉体となったものだ、というのです。

 

キリスト教が生まれた頃、ギリシアを中心とした周辺世界では、「霊肉二元論」という考え方が支配的でした。聞きなれない言葉かもしれませんが、これは、霊(精神)と肉体を、それぞれ独立し、対立するものと考えます。

霊(精神)は清く、善なるもの、肉体は汚れ、悪なるもの、と考えます。

さらに精神のふるさとである天は清く美しい世界、しかし、肉体の宿るこの地上の世界は醜く、汚れていると考えたのです。ヨハネ福音書はこの考え方に大胆に挑戦します。

 

確かに人間の世界では、今も、悲惨な出来事が毎日のように起きています。悪魔のように残忍な殺人事件などを聞くと、神様などいるのかと思ってしまいます。

だから、霊肉二元論の生まれるのも、わからないではありません。

 

しかし、聖書の神様は、世界のそのような悲惨な状況に無関心でおられる方ではありません。

聖書の神様は、この世界の悲しみ、悲惨な状況を、そのままに放置しておくのではなく、自らそのただ中に、入って行かれます。愛と赦しのうちに、人々と苦しみを共にしようとされます。

 

ここが、霊肉二元論との決定的な違いです。霊肉二元論では、精神的に清らかな存在は、汚れたものに近づきません。関わりを持とうとしません。

なぜなら自分も汚れてしまうからです。そして、対立を放置します。

 

それに対して、聖書の神様は、自らが、その汚れた世界を救うために、そのただ中に入って行かれます。それどころか、そのただ中に、人となって、自らお生まれになると信じられたのです。

これが、「神が、人となって、この世界にお生まれになった、」というクリスマスの重要なメッセージです。

最初に紹介した、ブルンナー博士の、「イエス・キリストのお顔が、神様のお顔だ」という言葉は、このキリスト教の信仰に基づいたものだったのです。

 

ところで、10日ほど前に、敬和学園高校・大学の合同の研修会が敬和学園大学でありました。高校と大学の連携について話し合うために、毎年、行われているものです。

その中で、今年、大学にできた新しいサークル、「ケイワ・ピース・プロジェクト(K.P.P)」の取り組みが紹介されました。

活動内容について、大学生4名と高校からも生徒1名が発表しました。核兵器の問題など、世界の平和のために自分たちに何ができるかを考え、行動するサークルです。

 

このサークルを立ち上げたのは、高校の50回卒業のIさんです。Iさんは3年生のとき、S先生の英語特講を履修しました。広島の原爆について英語で学ぶ科目です。

Iさんは、始めの頃は、被爆された方の写真を見ることができなかったそうです。そんなIさんが変わったのは、8月に実施される「ヒロシマ碑巡りの旅」に参加してからです。

ヒロシマでは、現実から目をそらさないで、全部、自分の目で見ようと心に決め、それを実行しました。その後、平和の問題に、より積極的に取り組むようになったといいます。

 

大学との連携が生まれるきっかけとなったのは、毎年、英語特講履修者が開く「原爆展」に、たまたま敬和学園大学のK先生が見学にきたことです。

K先生は、こういうことを大学でもやりたいと思いました。今年、ケイワ・ピース・プロジェクトができた時、K先生が顧問になってくれました。

今、メンバーは8名ですが、敬和高校以外の高校生が4名います。高校で学んだことを大学で発展させ、他の高校からの学生も巻き込んで活動しています。これは、高校と大学の新しい連携の形といえます。

 

私は、高校から多くの生徒が敬和学園大学に進学して欲しいと願っています。敬和大は、高校と同じ教育理念によって、人間教育に取り組んでいます。

先生方も高校がどのような教育を行っているかをよくわかってくれています。その意味で、敬和生にとって、最も信頼できる、進学先だと思います。特に、1,2年生は、今から、前向きに考えてみて欲しいと思います。

 

私はケイワ・ピース・プロジェクトの発表を聞きながら、このクリスマスを迎える時期に、ヒロシマ・ナガサキに投下された原爆、そして今も続く核兵器の問題について考えることの重要性を思いました。

そして、イエス・キリストが、この世界にお生まれになったことの意味をあらためて考えました。

先ほど、聖書の神は、この世界の悲惨な場所に、自ら、すすんで入って行かれる方だ、とお話ししました。

76年前、原爆投下直後のヒロシマは、この世界でもっとも悲惨な場所でした。そこは、人間の罪と愚かさが集約されたところでした。

神様は、そのような場所を避けるのではなく、自ら、近づいて行かれるかたです。そして、被爆されて苦しむ人たちと共におられるかたです。

クリスマスを待ち望む今、私たちも、その恵みをおぼえて、平和のためにできることを、それぞれが考える者でありたいと願います。