自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2009/01/19
聖書: マタイによる福音書6章33節
2009年正月も終わりました。
年末からお正月の出来事も何か遠い昔のように思えますが、その年末、暮れを迎えたある一家のお話をします。
お話というのは本当にあった話ではありません。
フィクションです。
その話が実はわたしたちの生活、生き方にとても大事なことを伝えています。
それをお話したいと思います。
お話の一家は1960年代の魚屋さんです。親子4人です。
一生懸命働いて、4人が何とか暮していけています。
親父さんは言いました。「貧乏暇なし」。
大晦日の夜ようやく店を閉めて、紅白歌合戦をラジオで聴きながらご飯を食べます。
親父さんが晩酌の一杯をやりながら、おかみさんに話をします。
それは丘の上の大きな屋敷に住んでいた一家が破産をして夜逃げをしたという話です。
気の毒な話だなあ、と話し合っているそこに、誰もいない隣の部屋から、しくしくと人の泣く声が聞こえてきます。
びっくりして、おそるおそるふすまを開けてみると、そこにつぎはぎだらけの着物を着たみすぼらしい老人が座っていました。
ほっと安心して、一家は老人の身の上話を聞きます。
老人の話によると、自分は魚屋一家の「守り神」で10年前から住み着いているというのです。
老人はあろうことか「自分は福の神」だといいました。
その言い分が納得できない親父さんは「福の神がいるのに、どうして自分の家は貧乏なんだ」と信じません。
すると老人は、自分は福の神の中でも「落ちこぼれ」であり、まじめに働いた魚屋一家をお金の面で報いることができず、申し訳なかったとあやまります。
しかもそのために、上役の神さまに怒られて、腕のいい福の神と交代することになり、自分は「貧乏神」に格下げになる、と話します。
話を聞いていた親父さん、老人が気の毒になって言いました。
「この10年間お金はなかったけれど、一家が病気もせず無事に暮すことができたのは、あんたのおかげだよ」。
そして、落ちこぼれの福の神の送別会を、おせち料理とお酒でやろうといいました。そこへ、後任の福の神がやってきます。
服装は金ぴか、態度大きい、名前は「バブリー大福」とのことでした。
バブリー大福は、それまでの自分の実績を自慢げに語り、魚屋さんを最短記録で百万長者にすると宣言します。
バブリー大福の勢いに圧倒されていた魚屋さんですが、おもむろに尋ねました。「ここに来る前はどこにいたのか」。
バブリー大福の説明によると、彼はつい昨日まで、例の丘の上の夜逃げをした大きな屋敷にいたということです。
そういってしまって、その場の雰囲気の気まずさをを察したのか、バブリー大福はあわてて次のように弁解をします。
「丘の上の一家はせっかく大金持ちにしてやったのに、そうなったとたん、親父は酒とばくち、奥さんは浪費、子どもたちは怠け者になったが、それは自分のせいではない、あくまで自己責任だ」。
バブリー大福の弁解を聞いていたおやじさんは、そこで大事なことに気がついて、そしてバブリー大福に出て行ってもらうようにいい、落ちこぼれの福の神にずっといるようにいいました。
親父さんはしみじみいいました。
「大金持ちにならなくても、まじめに働く人間が報われて、ささやかな幸せを守れる世の中であってほしい」。
そういう世の中のことを、聖書は「神の国」と呼んでいます。
それぞれがほどほどに喜べる。
ほどほどのあったかさを味わうことができる。
みんながほどほどの暮らしをすることができる世の中、それこそが本当に望まれる世界、平和といえる時代です。
誰か一人がとびっきりの金持ちになれば、必ずその一方で多くの人が貧しくなるのです。
アメリカの今倒産寸前の自動車メーカーの最高責任者は毎月の給料として何億円も貰っていたそうです。
おかしな話です。
しかしそれがおかしいと思われないで、うらやましがられる社会というのは、社会そのものが病気になっているといえます。
大リーグや日本のプロ野球の選手の1年間の給料が億円や10億円とさらに大きな金額と聞いて、おかしくない、変だと思わない社会は、社会そのものがヘンだということです。
日本でも社長が大金を貰っている会社の、自給1000円で働いている労働者がいとも簡単に辞めさせられているのです。
はっきりいえることは、ほどほどに、そこそこにということが、大切にされない、忘れられた社会はわたしたちにとって、間違いなく生きにくいということです。
そして、イエス様は、そのほどほどに、そこそこに、というものを奪われている人たちのことを隣人と呼んだのです。
その意味で、ほどほどに、そこそこにが奪われている隣人が多くいる今の日本は、決して幸せな社会、幸せな国に住んでいるとはいえないのです。
そのわたしたちに、イエスさまは「神の国と神の義」を求めなさいといいました。
神の国というのは遠いところにあるものではなく、それぞれがほどほどにあったかさを味わうことのできる社会のことです。
そういう神の国をつっていくことが、わたしたち一人ひとりに神さまから与えられた仕事だということです。
そこに本当の生きる目的がありますし、そのことを自覚した生き方を目指すところに敬和生の存在の意味があります。