自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2021/11/29
校長 小田中 肇
【聖書:ヨハネによる福音書 1章9~11節】
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言(ことば)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
先週、昼休みに教室から賛美歌が聞こえてくるようになりました。賛美歌発表会の練習ですが、昨年はコロナのために、練習も制限されました。
ですから、昼休み、教室から賛美歌の歌声が響いてくると、明るい気持ちになります。また、ひとつ敬和の日常が戻ってきたと思えるからです。
キリスト教会では、昨日からアドベントとよばれる期間に入りました。聖書の授業で習ったと思いますが、アドベントとは、「来る、到来する」を意味します。主イエス・キリストがこの地上に、お生まれになるクリスマス、その日に向かって、備えつつ過ごすのがアドベントの期間です。
賛美歌の歌練習も、私たちにとってのアドベントの過ごし方といえます。
主イエス・キリストの到来は、「光の到来」ともよばれます。今日の聖書、
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と、いわれるとおりです。ここでいう、まことの光とは、もちろんイエス・キリストのことです。
先日、谷川俊太郎という人の書いた、「光」という詩を読みました。谷川さんはクリスチャンではありませんが、聖書のメッセージにもつながる詩を書かれています。
詩の内容は、光のおかげで私たちはものを見ることができる、という、ただ、それだけのことを言っている詩なのですが、あらためて教えられたことがあります。
「私が光を見ることができるのは、それは私の眼のおかげではない、
それは光のおかげだ」、と谷川さんは言います。
私たちにも、今、チャペルでいろいろな物が見えています。自分の手、聖書、前に座っている人の後ろ姿、それらが見えるのはすべて光があるからです。
光がなければ、どんなに眼がよい人でも、暗くて、何も見ることはできません。
人が物を見るメカニズムは次のとおりです。まず光が、ものに当たって反射します。その反射した光の微妙な違いを眼が感知して、脳がその情報を映像としてイメージします。それによって物が見えるのです。
昼間、私たちは光の中に生活しています。しかし、光そのものを意識することはあまりありません。
例えば、授業中に光を意識するのは、教室で太陽光線がまぶしくて黒板の文字が読みにくい時くらいです。その時は、カーテンを閉めて光をさえぎります。
普段、ものを見ることができるのは、光のおかげではなく、自分の眼のおかげだと、私たちは思っています。
谷川さんは次のように続けます。
「光は私の眼のためにあるのではない。私の眼が光のためにあるのです。」
たしかに言われてみればそのとおりです。光は、私たちの眼のために創られたのではなく、光は人類の生まれる、はるか前、宇宙の誕生とともにあったと言われるものです。
私たち人間の眼の方は、光の微妙な違いを認識するために、生物として、何十万年かけて進化した結果、ようやく獲得された能力の一つにすぎません。
ところで、この光と眼の関係についての「たとえ」は、私たちの生き方についても大切なことを教えてくれます。
「私が光を見ることができるのは、それは私の眼のおかげではない、
それは光のおかげだ」、
これは、私たちは、自分ひとりの能力によって生きていると思いがちだが、それは違う、と教えてくれます。
私たちが、自分ひとりで、できていると思うことも、それを可能にしてくれる、自分以外の存在の働きがあって、初めてできているのだ、と言うのです。それは、自分を支えてくれる人たち、空気や水、光などの自然、そして神様の愛です。
この「光」のような存在を、聖書は、主イエス・キリストと呼びます。
その方の存在によって、人は、それぞれの人生に、深い意味と喜び、そして輝きを見出すことができるようになると考えるからです。
キリスト教は「愛」の宗教と言われます。聖書にも愛という言葉がたくさん出てきます。イエスは、弟子たちを、自ら友と呼んで、互いに愛し合うように、教えました。
私たちは昼間、光に包まれて生活しています。それと同じように、私たちは、神様の愛に包まれて生活しています。この愛の働きによって、私たちは生かされ、いろいろなことが行われ、様々な場面で助けられているのです。
光がなければ何も見えないように、この愛がなければ、人は、本当の意味で生きることができないのです。しかし、そのことに気がつかず、自分の力だけで、生きていると思いがちです。たとえば幼い子供が,親の愛に気づかず、自分の力だけで生きていると思うのと同じです。
私たちを、知らず知らずのうちに包んでいるこの愛こそが、私たちの存在の根拠であり、生きる意味を与えてくれるものです。ですから、この愛に気が付き、それに応えて、自ら愛する者として一歩を踏み出すとき、そこに大きな喜びと輝きがもたらされます。
谷川は「光は私の眼のためにあるのではない。私の眼が光のためにあるのです」と言いました。
この言葉は、次のように言い換えることができると思います。
「愛は私の心のためにあるのではない。私の心が愛のためにあるのです。」
アドベントを迎えた今日、私たちを包むこの光とキリストの愛をおぼえて、それぞれが、その豊かな恵みに応えて、希望のうちに新しい一歩を踏み出す者でありたいと願います。