月刊敬和新聞

2021年11月号より「イエスの少年時代」

校長 小田中 肇

 皆さんが、初めて文字を読めるようになったのは何歳のころでしょうか。始めは、ひらがなから覚えたと思います。私は、あまりに昔のことなので、「いつ」とはっきり言うことはできませんが、小学校に上がる、少し前に、母から、ひらがなの書いてある、積み木で習ったような気がします。その頃は、一つひとつのことを、自分でできるようになるのが、純粋に楽しかったのをおぼえています。 

少年イエス
 聖書にはイエスの少年時代の出来事を伝えるものがあります。イエスが12歳になったとき、イエスの家族は、親戚の人たちと一緒に祭りに参加するため、エルサレムの都に上ります。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスだけは、エルサレムに残りますが、両親はそれに気づきません。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまいます。それから、親類や知人の間を探し回りますが、見つかりません。捜しながらエルサレムに引き返しました。
 3日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしているのを見つけます。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いた。このようなお話です。12歳のイエスが、いかに賢い少年であったか、そして、家族から離れて別行動にでるなど、自立への芽生えも感じさせてくれるお話です。

完成された子供
 このお話を読むとき、私は以前、学習塾に勤めていた時に出会った子供たちを思い出します。そこは中学受験を目標にした小学校5、6年生を中心にした塾でした。勤務して2年目、成績が特によい生徒を集めた、小5のクラスを担当することになりました。そこで私は子供たちの優秀さに驚きました。11歳から12歳の子供が、方程式を用いずに、算数の難しい応用問題を解いて行きます。問題を解く力もすごいと思いましたが、それ以上に、彼らのもつ素直な明るさ、そして問題を考えるときの、子供とは思えない落ち着いた態度に驚きました。
 今になって思うと、彼らが見せたのは、完成された子供の姿です。子供時代が終わり、青年期を迎える前の一時期、人は完成された子供の姿を示します。その現れ方は、人によって違いますが、誰もが、そういう時期をもつのではないでしょうか。この時期の子供は、透明感あふれる、生き生きとした姿を見せるのです。世の中のことも、子供なりに理解し、時には、大人以上の深い洞察力を示すこともあります。そして未来に対する、明るい予感と期待でいっぱいです。少年イエスの賢さも、この年齢特有のものに思えます。

青春の試練
 しかし、残念ながらこのような時期は、長くは続きません。必ず終わりが来ます。精神的にも、肉体的にも、人はいつまでも、子供ではいられないからです。それが、今、高校生の皆さんが、その真っ只中にいる思春期という時期です。そこでは、子供の明るい透明感は失われています。それは一度、失われなければなりません。大人になるために、もう一度、今度は、実際の経験をとおして学び直さなければならないからです。それは、子供が新しいことを習うことよりも、はるかに苦しく厳しいことかもしれません。
 若者が乗り越えなければならない試練ですが、それは自分ひとりの力で乗り越えられるものではありません。そのくらい大変なことだからです。辛いときには、ぜひ、家族や友達、学校の先生や信頼できる大人の人、そういう人たちを頼ってください。昔から、人々はお互いに支え合うことによって、この思春期の苦しい時期を乗り越えてきました。
 そして、この時期をどのように過ごすかが、その人の、その後の人生に大きな影響を与えます。ですから、皆さんが、今、生きている、かけがえのないこの青春の日々を、大切に生きて欲しいと思います。

イエスの愛
 聖書のお話にもどります。イエスが宣教活動を始めたのは30歳頃と言われています。12歳の時に示した、目の覚めるような賢さも、花が散るように、いったんは失われました。しかしその後、さまざまな経験と学びを重ね、イエスには決して失われることのない、本当の智恵と勇気が授けられました。それは神に仕え、愛をもって隣人に仕えるという生き方です。
 一度は失われた、子供時代の賢さが、人と神に対する揺らぐことのない「愛」に形を変えて、イエスのもとに戻ってきたのです。その後のイエスの活動は、新約聖書に詳しく伝えられています。イエスは、神様と人への愛を、十字架における死にいたるまで実践し、人々から、世の救い主と呼ばれます。
 その恵みをおぼえて、私たちも勇気をもって共に歩む者でありたいと願います。