お知らせ

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2021/11/15

今週の校長の話(2021.11.15)「いばら姫」

校長 小田中 肇

【聖書:コリントの信徒への手紙2 4章7節】

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

 

今年、9月の礼拝で「三年寝太郎」という昔話を紹介しました。これは男の子が主人公でしたが、同じようなお話で、今日は女性が主人公のものを紹介したいと思います。

どこが似ているかというと、両方とも寝てばかりいる、という点です。寝太郎は怠け者で、寝てばかりいましたが、今日の主人公は、魔法で眠りについてしまいます。

寝太郎は3年ですが、今日の主人公は、なんと100年の眠りです。今日紹介するのは、グリム童話におさめられている「いばら姫」という昔話です。これは、ディズニー映画「眠れる森の美女」の原作にもなったものなので、知っている人も多いのではないでしょうか。

 

王様と王妃に念願の女の子が生まれます。王様はうれしくて、きらびやかなお祝いの会を催します。国には不思議な力をあやつる13人の妖精がいましたが、12人が招かれ、一人だけ招かれませんでした。

招かれた12人の妖精の中の最初の11人は、それぞれ王女に、気高い心、美しさ、豊かな富を授けました。ところが、そこに、突然、お祝いに招かれなかった13人目の妖精が入ってきます。

そして、「王女は15歳になると、糸車の針が手に刺さって死に至るだろう」と呪いをかけます。

しかし、最後の12人目の妖精が、この呪いを、「100年のあいだ、死んだように眠り続ける」というかたちに和らげます。

 

王様は国中の糸車を焼却するように命じます。やがて王女が15歳になった日、王と王妃は留守で、王女が一人で城の留守番をすることになります。

王女は、古い塔で糸車を操る老婆に出会い、自分も糸を紡いでみようとした途端に指を針で刺してしまって、深い眠りに陥ります。

その時、城に戻った王と王妃も、その他の人々も動物たちも、料理中の火も、城のすべてが眠り始めます。

 

一方、城の周囲のいばらが年と共に伸びて、城を深く覆ってしまいます。いばらとは、野バラのように、とげが生えた植物のことです。

眠っている王女「いばら姫」の伝説が国中に広がると、あちこちの王子たちがやって来て城に入ろうとします。しかし、いばらにひっかかったまま、抜け出せず、王子たちは皆、憐れな最期を迎えます。

 

やがて100年が経過したとき、ある王子が城にやって来ます。すると、とげだらけのいばらの壁が、突然、花の壁に変わり、王子が近づくといばらは自然に開いて、道ができます。

王子は眠り続ける人々の間を通り過ぎて、塔の小部屋にやってきます。そこにはいばら姫が眠っていました。王子が口づけをすると姫は目を覚まします。

姫が目を覚ますと、王、王妃、家来たち、その他の人々、動物たち、その他の物たちの順番で目を覚まします。やがて王子と姫の立派な結婚式があげられた。このようなお話です。

 

このお話も若者の成長物語と見ることができます。いばら姫は眠りにつきますが、100年間、誰も彼女に近づくことはできません。

城に近づこうとする人は、いばらのとげによって、傷つけられるからです。寝太郎は怠け者で、人からバカにされていました。それに対して、いばら姫は、呪いによって、人との関わりを拒否しているようにも見えます。

 

若者が成長するとき、自分以外の人間を拒否したくなる時が、誰にでもあるのではないでしょうか。ある時期、親や友達を寄せ付けない雰囲気を出すことは、男女を問わず、若者によくあることです。

 

理由は、人によって違います。他人を拒否しないと、自分が失われてしまうと感じるから、自分のなかの何か大切なものを守るため、それとも、現実から逃げるためでしょうか。

はっきりとした理由は、おそらく誰にも分かりません。

しかし、このお話は若者が他人を拒絶し、自分だけに関わり続けることの危険性を伝えています。

 

王女の100年の眠りは、13番目の妖精にかけられた15歳で死ぬ、という呪いが和らげられたものです。王女は、死ぬ代わりに、眠っているのです。

若者が、新しい段階へと成長しなければならないとき、その困難な状況から逃げようとして、自分の世界に閉じこもってしまう場合があります。

人を拒絶して、自分だけの世界に閉じこもっていれば、苦しみはありません。しかし、その時間が長く続くと、それはその人に、死と同じ状態をもたらします。

しかも、その状態は、自分一人にとどまるものではありません。周りの人が皆、同じ状態に陥るのです。

 

王女が眠りにつくと、お城の全て人、全ての動物、全ての物が眠りにつくのはそのことを表しています。何故でしょうか。

 

人は孤立して、自分だけで生きているものではないからです。全ての存在は、互いにつながりあって、同じ時間を生きています。王女が眠るとき、お城全体の時間が止まったように、全てが眠りについたのはそのためです。

例えば、家族の中で、一人の子供が、激しく親を拒絶するとき、それはいばらのとげのように親を傷つけます。そして、家族全体の時間が止まります。

 

さて、100年が過ぎたとき、たまたま訪れた王子のキスによって、王女は目を覚まします。100年とは少し長すぎますが、これは王女が、愛を受け入れるために必要とした時間を表しています。

つまり、若者が、自分以外の人の愛を受け入れるためには、長い時間が必要だ、ということを意味しています。

また、王女の目を覚ましたのは、王子の愛というよりも、自分が拒絶していた人たち、つまり家族や友達の愛、そして神様の愛のことではないかと思います。

そのように考えた方が、このお話しを単なるラブストーリーと見るよりも、深く理解できるからです。

 

愛を受け入れる準備ができたとき、お城を覆っていた、いばらは、自然に開き、道を作ります。そして、王女が目覚めると、王様と王妃をはじめ、お城のすべてが、順に、目を覚まして行きます。

これは、王女が、自分と自分をとりまく世界との関係を回復したことを表します。そして、お城には幸福な時間が、再び、流れ始めるのです。

 

様々な矛盾を抱えながら、そして、それを一つひとつ乗り越えて、若者は成長します。そのことを、「いばら姫」のお話しは伝えています。

 

今日の聖書は、「私たちは、神様からの宝を、その中に納めている土の器(うつわ)である、」と言います。

土の器とは、いつか永遠の眠りにつく、私たち自身のことです。そして、それぞれの宝は、神様の愛によって輝きを与えられます。

私たちも、その恵みをおぼえて、今日の一日、愛をもって、共に歩む者でありたいと願います。