お知らせ

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2021/11/01

今週の校長の話(2021.11.1)「性善説と性悪説」

校長 小田中 肇

【聖書:マタイによる福音書26章74-75節】

ペテロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。

 

今年は東日本大震災から10年、アメリカ同時多発テロから20年ということで、テレビや新聞でも特集が組まれました。東日本大震災では、津波などで大勢の方がお亡くなりになりました。

敬和からも宮城県七里ヶ浜に、被災支援労作として2011年だけでも計10回、生徒と教師合わせてのべ135名が参加しました。全国からも大勢のボランティアが駆け付けました。金曜の夜は、週末のボランティアに参加する人を乗せた、首都圏からの夜行バスが列を連ねたといいます。

被災地では、略奪行為などは一切なく、人々が互いに助け合って困難に立ち向かったことが報道されました。

 

皆さんは性善説と性悪説という言葉を聞いたことがあるでしょうか。性善説とは、人間は本来、善なるものだ、という考え方です。それに対して、性悪説とは、人間は本来、悪なるものだ、という考え方です。

どちらが正しいか、簡単に答えが出るものではありませんが、現代は性悪説に立つ人が圧倒的に多いといわれます。

 

性悪説では、一見、善良に見える人間も、自分の命が危険にさらされると、他人を犠牲にしてでも自分だけが助かろうとする、例えば、災害や戦争などで、極限状況に陥った人間は、利己的な悪い本性をあらわす、というのです。

毎日のように報道される、全国で起きる犯罪や事件、そして世界のさまざまなところで続く戦争やテロなどを見れば、そう思うのも当然です。

逆に、性善説を信じる人は、現実を知らない、おめでたい人と思われてしまいます。

 

しかし、実際にはどうなのでしょうか。先週で終わったNHKの朝の連ドラ「お帰りモネ」という番組があります。

観ていた人は、ほとんどいないと思いますが、これは被災地の気仙沼を舞台にしたドラマです。震災の4年後の設定ですが、そこには様々な傷を心に負った人たちが登場します。

その中に、主人公モネの妹、美知がいます。美知はずっと、人に言えない何かを、心に抱えていました。それが先週の回で明らかになりました。

それは美知が、津波が来た時、自分をかわいがってくれていたおばあちゃんに、一緒に逃げようと言ったのに、そこを動こうとしなかったので、おばあちゃんを置いて、自分だけ逃げてしまったことです。

そのとき美知は、まだ中学生でした。幸い、後から来た大人の人たちが、おばあちゃんを連れ出してくれたので、助かったのですが、美知は自分を許すことができなかった、というのです。

そのことを誰にも言えず、ずっと苦しみ続けてきたのです。

 

性善説と性悪説に戻るならば、美知がおばあちゃんを置いて、自分だけ助かろうとしたことは、性悪説を裏付けることになります。しかし、そういう自分を許せなくて、ずっと苦しんで生きて来た美知の姿は、性善説、つまり人間の本性は善なるものだ、という説を裏付けるようにも思えます。

皆さんは、どのように考えるでしょうか。

 

20年前のアメリカ同時多発テロでは、旅客機を乗っ取ったテロリストがアメリカ、ニューヨークにある世界貿易センタービル(ツインタワー)に突っ込み、多くの犠牲者を出しました。

今年、出版された「希望の歴史」(ルトガー・ブレグマン)という本に、ツインタワー内部のそのときの状況が報告されています。

「ツインタワーが燃えていたとき、数千人の人々が、自分の命が危険にさらされているのを知りながら、静かに階段を降り続けた。彼らは消防士やけが人が通れるように、脇に寄った。信じがたいことに、本当に『お先にどうぞ』と言ったのです。不思議な光景でした。」

 

本の著者、歴史家のルトガー・ブレグマンは、世界の歴史上の様々な災害を調査した結果、「ほとんどの人間は善良である。そして、大災害は、人々の善良さを引き出す。」と結論づけました。これは意外な結論でした。

 

日本の古典に「方丈記」という作品があります。今から800年以上も前に書かれたものです。西暦1181年頃、まる2年間、ひどい飢饉がつづき、都では多くの人が餓死しました。

その中に次のような記述があります。

「ひとりなら生きていけたのだ。でも、二人いると愛の深い方が先に死んだ。やっと手に入れた食べ物を相手に与えてしまうからだ。

親子なら親が先に死んだ。亡くなった母親のからだにむしゃぶりついて、赤ん坊が無心に乳を吸っていることもあった。」(高橋源一郎訳)

 

状況を説明する必要はないと思います。大飢饉が、必ずしも人間を狼に変えるのではないことが、ここからも分かると思います。

 

今日の聖書です。イエスの弟子にペテロという人がいました。ペテロはある時、イエスに言いました。

「たとえ、ご一緒に死ななければならなくなっても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません。」

ところが、実際に、イエスが人々に捕らえられたとき、なんとペテロは、自分がイエスの弟子であることを否定します。イエスの仲間と思われて、捕らえられることを恐れたからです。

そして人に、「あなたはイエスの弟子ではないか」と聞かれると、「そんな人は知らない」と答えます。

しかも、その問いかけは3度繰り返され、3度目に否定したとき、鶏が鳴く声が聞こえます。すると、ペテロは激しく泣き出しました。

なぜなら、「鶏が鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言うだろう」と、以前、言われたイエスの言葉を思い出したからです。今日の聖書はその場面を描いています。

 

ここには、イエスを見捨てた惨めなペテロがいます。しかし、ペテロはそのとき、あることに気が付きます。

弱さや、ずるさをもった自分を、イエスはよく知っていながら、そのことを決して責めなかった、それどころか、そういう自分を深く愛し、弟子にまでしてくれた、そのことに気が付いたのです。

イエスの愛に触れ、今までの自信満々の自分が崩れて行くのを感じます。

しかし、それは新しい自分が生まれるための「産みの苦しみ」といえるものでした。この経験は、ペテロにとって終わりの時であると同時に、新しい始まりの時でした。

ペテロはこの後、イエスの福音を熱心に宣べ伝え、弟子たちの中で中心的存在となります。彼は2000年以上続くキリスト教会の礎を築きました。

ペテロは、イエスを3度も否定しました。しかし、神様はそれを赦します。そして、それをはるかに超える、大きな善、大きな恵みへとペテロを導かれます。

私たちも、その恵みをおぼえて、今日の一日、ともに歩む者でありたいと願います。