お知らせ

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2021/10/25

今週の校長の話(2021.10.25)「親ガチャという不平等」

 校長 小田中 肇

【聖書:マルコによる福音書3章32-35節】

大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「ご覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 

10日程前の新聞(朝日新聞10月14日)に、「親ガチャという『不平等』」という特集が載っていました。私は、親ガチャという言葉を聞くのが初めてだったので、何だろうと思って読んでみました。

ガチャとは、100円玉を入れて、レバーを回すと、カプセルに入ったオモチャが出てくる、ガチャガチャとかガチャポンといわれるものです。親は選べず、親次第で人生が決まってしまう。そんな人生観を表す言葉だそうです。

今年の9月、「親ガチャ」を巡って、SNS上で論争が湧き起こりました。新聞の内容を紹介します。

 

この言葉を巡っては、若者世代と40代以上の親世代とで意見が分かれました。親世代は若者に、「自分の努力不足を親のせいにするな、」と言います。

それに対して若者は、「何も分かっていない」と反発します。

子供に、「親ガチャでハズレた、」と言われた親は、自分の子育てを否定されたように感じ、当然、傷つきます。しかし、子供は別に親を非難するつもりで言っているのではない、といいます。

クジにハズレた、といってクジそのものを責める人はいません。自分には運がなかった、と嘆くだけです。それと同じように、子供は親を責めるつもりで、「親ガチャでハズレた、」と言っているのではない、というのです。

なかなか難しい問題です。皆さんは、この言葉を、どのように感じるでしょうか。

 

社会学者の土井隆義さんは、この問題の背景には、「努力」という言葉に対する、若者世代と中高年世代との認識の差がある、と言います。

日本経済が大きく成長していた1990年代をまでを知っている中高年は、進学や就職で、努力すれば、それだけの報いがあることを経験してきました。

一方、30代以下の若者は、経済成長が1%台の世界を生きてきました。努力しても、そのリターンは当然、小さいものになっています。ですから、本人の努力よりも、経済的に豊かな親のもとに生まれたか、どうかで、人生が決まってしまう、そのように若者が感じるのも無理がないといいます。

 

しかし、本当の問題は、別のところにあると土井さんは続けます。それは、今の日本社会の在り方です。格差が広がり、その格差が固定しつつある日本社会の在り方です。

それを問題にしないで、全てを若者の努力不足のせいにするのは間違いだ。社会の格差を、人の力では変えることのできない、絶対的なものとして受け入れるのではなく、少しずつでも変えて行けるもの、変えて行かなければならないものとして、若者に声を上げて欲しい、そのように土井さんは言います。

私も新聞を読んで、土井さんの考えに共感しました。

 

ところで、私は、親ガチャという言葉から、偶然に支配された親子関係をイメージします。確かに、人は自分の親を選んで生まれて来るわけではありません。自分の親が、今の親であるのは偶然です。

しかし、本当にそれだけでしょうか。それが偶然ならば、皆さんの家族もみんな偶然の産物です。

もし、全てがガチャポンのようにして決まってしまうならば、そこに意味や目的を見出すことはできません。本当にそれでよいのでしょうか。

 

今日の聖書で、イエスは、自分の家族について、びっくりするようなことを言っています。ある時、弟子たちがイエスに言います。「母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」。

それに対してイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と問い返します。つまり、あの方々は、自分の親でも兄弟姉妹でもない、自分の本当の家族とは、御心(みこころ)を行う者のことだ、と答えるのです。これは、どういうことでしょうか。

 

イエスは、ここで、私たちに、何か偶然を超えるものに目を向けるように促しているように思えます。つまり、肉親としての家族を、絶対的なものにしてはいけない、その先にあるものに目を向けるようにと、言っているのです。

 

当時としても、これはかなり挑戦的な言葉だったと思います。イエスの生きた時代は古代王朝が支配した時代です。そこでは、血のつながりが絶対的でした。それは、今も私たちの家族観を支配しています。

しかし、イエスは、血のつながりが本当の家族を生むのではない、と考えました。

では、何が、本当の家族を作り出すのでしょうか。イエスはそれを、「御心を行うことだ、」と言います。

 

つまり、血のつながりによって生まれた家族も、そのままでは、家族とはいえない。そのままでは親は親ではなく、子も子ではない。共にさまざまな経験をすることをとおして、初めて、親は親に、子は子になるのだ。

互いを思いやる心と忍耐をもって生活することによって、親子は少しずつ家族になるのだ、と言うのです。

たまたま出会った者が、お互いの愛によって、かけがえのない存在に変えられること、それこそが、イエスの言う「御心を行うこと」です。

御心によって、偶然の出会いが、かけがえのない運命に変えられるのです。

 

私たちの人生は、家族以外にも、たくさんの出会いから成り立っています。たまたま出会うことのできた、一つひとつの関係を、意味あるものへと育てて行くこと、それこそが私たちの生きる意味であり目的です。

敬和で過ごす3年間、今、ここで、たまたま巡りあった人との関係が、それぞれ、かけがえのないものへと変えられること、そのような3年間を送って欲しいと思います。