お知らせ

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2021/10/04

今週の校長の話(2021.10.4)「修養会に寄せて」

校長 小田中 肇

【聖書:創世記1章2-3節】

地は混沌であって、闇は深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

 

先週は、2泊3日の全校修養会が行われました。大きな事故やケガ、また一番、心配されていたコロナのクラスター発生もなく、ほっとしています。この修養会で経験したことを、これからの学校生活に活かして行って欲しいと思います。

私は、3年生の修養会に参加しました。講師の太田敬雄先生からは、ご自身の留学をはじめ様々な経験から、貴重なお話を伺うことができました。その中で印象に残ったことを紹介します。

 

先生は高校を卒業してアメリカの大学に留学しました。始めは英語ができなくて苦労しました。ところが英語が分かるようになって、授業でがんばって発言しても、どの教科の先生からも同じことを言われました。

「もっと授業に貢献するように。」という言葉です。つまり、授業中、もっと積極的に自分の考えを述べるように、と注意されたのです。本人は、がんばって発言しているつもりでも、アメリカ人の平均にも及ばないということです。

日本人は、人の話を聞く姿勢はできていますが、自分の意見を聞かれると、黙ってしまう人が多い。それに対して、アメリカの学生は、積極的に自分の意見を述べるといいます。

 

ここで太田先生が強調されたのは、日本とアメリカ、どちらがよいと言っているのではない、ということでした。両者に違いがあること、その違いを知ることが大切だ、それによって相手を認めることができるようになるからだ、というのです。

 

では、この違いは何によってもたらされるのでしょうか。それは、幼いころからの訓練によってもたらされる、と言います。

先生は2度目の留学のときは、3歳になる娘さんも連れて行ったそうです。

そのとき、娘さんの通う幼稚園で次のような課題がでました。好きなものを紹介してください。そして好きな理由を3つあげてください、というものです。

例えば、ウサギのぬいぐるみが好きだ、といえば、その理由として、ウサギの耳がかわいいから、やさしい目をしているから、誕生日のプレゼントにもらったものだから、などとみんなの前で答えなければなりません。

このような、訓練をすでに、なんと3歳で始めているのです。幼稚園の先生も特別なことをさせているつもりはないでしょう。アメリカではごく普通のこととしてさせているのです。

アメリカではこのように幼い頃から、自分の意見を述べる訓練をしてきます。中学、高校と、内容はより高度になってくるでしょう。それに対して、日本の学校では、自分の意見を述べることよりも、教師の話を聞くことが求められます。

ですから、日本の教育を受けてきた人とアメリカ人とでは、大学生くらいの年齢になれば、大きな差が出るのは当然です。これは個人の能力や適性の差ではなく、文化の違いとしか言えません。

 

私は、講演のあと、先生に個人的に質問しました。

今、多くの教育関係者は、「日本人は、もっと自分の意見を述べることができるようにならなければならない、そのための教育に日本も取り組まなければならない」と言っています。文科省もアクティブラーニングの推進など、教育改革に取り組んでいますが、先生は日本の学校教育がどのような方向に進むのがよいとお考えですか、と聞きました。

先生は次のように答えました。「最近の若い人は、以前に比べると、自分の考えを述べられるようになってきました。しかし、一つの方向性しか認めないような教育はいけないと思います。」

 

私は、本当の国際人とは、このような感覚の持ち主なのだな、と教えられました。つまり、アメリカ人のように自分の考えを述べることができる能力も大事ですが、それ以上に大切なことがある。

それは、多様な文化、それぞれの違いを認め、相手を理解することだ、と言われているように思えたからです。

 

考えてみれば、アメリカ人が、自分の考えを主張することを幼い頃から訓練するのは、アメリカが多くの国からの移民によって作られた国だからです。互いに言葉で、はっきりと主張しなければ、ものごとが前に進みません。

それに対して、日本は長いこと人の移動の少なかった島国です。黙っていても、ある程度、考えていることが、互いにわかるのです。

ですから日本人にとって、自分の考えを述べる訓練は特に必要ありませんでした。それよりも、言葉として口にされる前に、相手の気持ちを察することの方が尊重されました。

 

このように、どこの国にもそれぞれの歴史と文化があるのです。どちらが上で、どちらが下ということはありません。それぞれ長所と短所があります。

互いの違いを認め、理解することです。それを一つの方向だけが正しいとして、それ以外を認めようとしないのは間違いです。それは文化的全体主義に陥ることだからです。

 

だからといって、日本が今のままでよい、ということではありません。改善しなければならないことはたくさんあります。

そのために私たちは、今以上に、世界の様々な国、その文化や歴史に目を向けなければなりません。アメリカやヨーロッパだけではなく、アジアやアフリカ、南米の国々、それらの国の文化・歴史・宗教から学ばなければなりません。

そして、日本の変えるべきことは変え、大切に守るべきことは守ること、それこそが、日本の社会を、今よりももっと開かれた、豊かなものにして行くのだと思います。

 

ところで、お話をしてくださった太田敬雄先生は、敬和学園の初代校長太田俊雄先生の息子さんです。現在、79歳ですが、今も元気に、若い人たちの多文化交流のための活動に取り組まれています。

敬和教育の柱のひとつは「国際人の育成」ですが、修養会ではそれにふさわしいお話を聞くことができました。

 

さて今日の聖書です。「神は言われた。『光あれ。』すると、光があった。」

人間の意識は、光にたとえられます。夜の混沌とした眠りの状態から、朝の光とともに意識が目覚め、世界が認識されて行くからです。

今、世界は混沌とした状況にあります。アメリカがアフガニスタンから突然、撤退したり、先の見通せない状態です。

その中にあって、私たちは、お互いの国を理解することに努めなければなりません。互いを知り、理解することこそが、混沌とした闇に射す光だからです。

しかも、光は天地創造において神様が最初に創られたものです。私たちは、その恵みをおぼえて今日の一日、ともに歩む者でありたいと願います。