お知らせ

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2021/09/27

今週の校長の話(2021.9.27)「心魂(こころだま)プロジェクト」

校長 小田中 肇

【聖書:マルコによる福音書8章22-24節】

一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところは連れてきて、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外へ連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」

 

先週、行われた芸術鑑賞会では、21回卒業の寺田真実(てらだまさみ)さん率いる、心魂(こころだま)プロジェクトによる「歌と演奏で世界旅行」を鑑賞しました。1年8か月振りの、観客を前にした、対面での公演ということもあり、文字どおり、心と魂に響く、素晴らしいものでした。

歌声とダンスの迫力に、皆さんもたくさんの元気をもらったのではないでしょうか。

 

出演者、一人一人のメッセージも心に残るものでした。

寺田さんは、病気の子供たちのために、彼らがミュージカル会場に来るのを待っているのではなく、自分が彼らのところに出向いて行こう、そう心に決めて、このプロジェクトを始めたといいます。

16歳で宝塚に合格した有永美奈子(ありながみなこ)さんは、「自分ができないと思っていることの8割は、自分がそう決めつけているからにすぎない、あきらめないでいろいろなことに挑戦してみて欲しい」と、力強く語られました。

敬和の39回卒業の向谷地愛(むかいやちまな)さんは、「遠い未来のことは分からないけれど、一つひとつの出会いを大切にして、そのとき与えられたことに、まっすぐな気持ちで取り組むこと、そうすれば次の道は必ず開けてくる」と、言われました。

 

一人ひとり、ここに来るまで、さまざまな経験をされていますが、前向きに、今の自分の人生を生きていることが伝わってきました。共通しているのは、皆さん、歌やダンスが大好きなこと、そこが自分の居場所だと考えていること、そして、自分のためだけではなく、それを病気の子供たちにささげ、そのことを自分たちの喜びとしていることです。

 

 

私は今回、あらためてパーフォーマンスのもつ力の大きさを教えられました。言葉や文字では伝えきれないものが、身体(からだ)と声によって、圧倒的な力で、伝わって来ました。

気がつくと、私も彼らの作り出す世界に参加しているような気持ちになっていました。

 

文化人類学者ヴィクトル・ターナーの「パーフォーマンスとしての人類学」という本に次のようなことが紹介されています。ターナーはアメリカ、シカゴ大学の先生でした。

あるとき人類学を専攻する学生が、アフリカや南米の習俗や儀礼(結婚式・成人式・お葬式などの儀礼)の研究のために、現地に出かけて行きました。

学生は、それを文字に記録して帰って来るのですが、それらの儀礼は、文字化されると、何か大事なものが伝わってこないことに気がつきます。

そこでターナーは、儀礼の全体を正しく理解するために、それをドラマに、仕立てなおすことを提案します。

 

アフリカで採取してきた結婚式やお葬式などの儀礼を、見てきたとおり、学生達にドラマとして再現させました。そうすると外から観察しているだけでは分からなかったことが、よく分かるようになりました。

学生達は、実演することによって、何よりも、そこに参加する人たちの感情に共感できるようになったと言います。文字や言葉で表現できないものを、当事者の感情や心の動きも含め、立体的、構造的に理解できるようになったと言います。

 

先日の芸術鑑賞の中で、寺田さんは、何度も「パーフォーマンス」という言葉を使われました。そこには「人が演じるのを見ているだけではなく、実際、自分で演じてみること、そして自分の演じることを人に見ていただくこと」

それによって、生きることの意味や喜びが、より深く感じられる、そのようなメッセージが込められていたように思います。

 

さて今日の聖書は、イエスが目の見えない人の目を見えるようにしてあげる場面です。

ここでイエスの行う奇跡も、一つのパーフォーマンス のように思えます。イエスは、渾身の思いで、目の見えない人の視力を回復するというパーフォーマンスを行います。

 

ところで、イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのは、イエスが30才の頃と言われています。

イエスが水から上がってくると、天が裂けて、聖霊が鳩のようにくだってきた、と書かれています。イエスが行う、いやしのパーフォーマンスは、このとき鳩のようにくだってきた聖霊と関係しています。

 

イエス一行のもとに一人の目の見えない人が連れてこられます。イエスは唾を、目に塗ります。それから、両手を目に当てます。

手を当てるという行為は、イエスの時代、ユダヤ教の聖職者のみに許された祝福行為でした。「按手(あんしゅ)」とも呼ばれる儀礼ですが、相手の頭に手を置くことによって、聖霊が、相手に伝達することを願う行為です。

イエスは両手をその人の目に当てます。自分に宿る聖霊が、その人に働くことを願ったのです。ここで聖霊とは、「天に吹きわたる風、森羅万象に命を授けるあたたかな光、人間の思いを超えて働く神の力」、そのようにイメージしてみてください。

聖霊の働きによってその人の視力は回復しました。

 

ところでイエスにくだった聖霊も、イエスが何も行わなければ、働くことはありません。そこに留まったままです。イエスが必死になって、目に唾をぬったり、手を当てる、というパーフォーマンスがあって初めて働くのです。

イエスが、その人の目の見えない苦しい状況に心動かされ、手を差し伸べ、両手を目に当てたとき、聖霊が働き、奇跡は起きたのです。

 

私たちも、神さまから与えられたそれぞれの恵みを、自分の中にとどめておくのではなく、その力を、人のために使う者、自分を必要とする人のために用いる者でありたいと願います。

そのとき、そこには必ず小さな奇跡が起きるはずだからです。