自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
校長 小田中 肇
先日、教育実習生の世界史の研究授業を見学に行ったところ、次のようなテーマで話し合いをしていました。「なぜ、現代の日本には、奴隷制がないのだろうか」古代ギリシアは奴隷制が当たり前の時代だったのに、なぜ現代、それがないのかを考えるというものです。面白いテーマだと思いました。
各グループから、次のような理由が、挙げられました。「日本では法律によって基本的人権が尊重されているから」「AIなどの科学技術が進歩したから」「労働者が奴隷の代わりに働くから」「貧富の差があまりなくなったから」などです。どれも一理あると思いました。
奴隷に認められないものは、個人の「自由」です。相手の自由を認めないのは、相手の人格を認めないことと同じです。ですから自由を認めることは、人間としての尊厳を認めることに通じます。
自由の風
先日、行われたフェスティバルでは、敬和学園に、自由の風が吹き渡るのを感じました。誰かに強制されるのではなく、自分たちが主人公となってこの行事をつくりあげる敬和生の力強い気概、その魂の息吹に触れることができたからです。敬和学園は特別な学校だ、そしてこれからも自由を大切にする学校でなければならないと思いました。
Z世代の若者たち
ところで、今年の2月、東南アジアのミャンマーという国で軍事クーデターが起きました。ミャンマーはもともと、国軍が強い権力をもっていましたが、2015年の選挙で国民民主連盟(NLD)が政権をとり、民主化されました。軍は自分たちの権限が失われて行くことに対する反発として、軍事クーデターを起こしたのです。
それに対して、すぐ市民による抗議運動が起きました。しかし軍はそれを弾圧し、すでに、子供を含む800人以上が犠牲になったと言います。それは今も続いています。
抗議運動の主役として注目されたのがZ世代と呼ばれる若者たちです。1990年代の半ば以降に生まれた人たちで、SNSなど通信の自由化の流れを享受した、デジタルネイティブと呼ばれる世代です。
ビョーさんという、デモに参加している若者の言葉を紹介します。デモに参加して怖くないのか、という質問に対し、「もちろん銃は怖いけど、自由を失う方がもっと怖い」。自分らしくいられる社会が失われるのは耐えがたい。その思いが、彼らをデモの最前線に駆り立てているのです。(AERA2・15号より)
日本と同じアジアの国で、命がけで自由を守ろうとしている若者たちがいることに、私たちも目を向けなければなりません。
神につかえる
それでは、聖書は、自由についてどのように考えるのでしょうか。出エジプト記は、モーセに率いられたイスラエルの人々が、エジプトから脱出する出来事を描いています。イスラエルの人々はエジプトで奴隷として働いていました。神様はモーセという人物を選び、次のように告げます。「今、行きなさい。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」神様は人間が奴隷として生きてはいけないと考えたのです。人間を神につかえる自由な存在として創造されたからです。
ところが、人間は、この神様から与えられた自由に耐えられず、自らそれを手放してしまうことがあります。自由であるとは、自分の生き方を自分で考えなければならないことです。それに対して、奴隷は、何をするべきかを考えないで済みます。与えられた命令だけをこなせばよいからです。ですから奴隷の方が、楽でいいと思ってしまうのです。
今もそのような人はたくさんいます。何かの中毒の人は、皆、それらの奴隷です。薬物中毒、ゲーム依存、お金もうけしか頭にない人はお金の奴隷です。自分から進んで権力者の奴隷になる人もたくさんいます。
残念ながらこのような人は特別ではなく、誰にでもそのような傾向が大なり小なりあります。出エジプト記でも、イスラエルの人々は奴隷から解放されることを嫌がりました。彼らは「奴隷の方がましだった」と何度もつぶやきます。
恵みとしての自由
しかし、神様は迷うことなく、出エジプトを成し遂げます。ここで大事なことは、このエジプトからの脱出、奴隷からの解放は、人間が自分の力で勝ち取ったものではない、ということです。それは最初から最後まで、すべて神様の御業(みわざ)が成し遂げてくださったものでした。
そこには、私たち一人ひとりが、何者にも支配されず、自由なものとして生きて欲しいという、神様の願いが込められています。その恵みに感謝して、私たちも共に歩むものでありたいと願います。