自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2021/07/16
校長 小田中 肇
【聖書:詩編126篇5-6節】
涙とともに種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
今日は前期の終業日で、いよいよ明日からは夏休みです。4月から今日までを振り返るとき、こうして無事、終業日を迎えることができたこと嬉しく思います。
さて、それぞれが様々な思いをもって、4月からの学校生活を送ったと思います。新年度が始まり、新しい環境になれることは、誰にとっても緊張することです。
皆さんは、それぞれがその困難状況を経験し、それを何とか乗り越えて、今、ここにいることと思います。
私たちは、一般に、過去を振り返り、反省するとき、できなかったこと、足りなかったことを中心に考えがちです。もちろんそれも必要です。
しかし、それ以上に大事なことは、与えられた状況のなかで、自分にできたこと、ここまでは自分がやることができた、そのことを前向きに認めることです。
なぜなら、自分にできたことを、しっかり認めることによって、次の一歩を踏み出すための自信と勇気が与えられるからです。
この3か月間で自分にできたこと、やり遂げられたことを、数えてみてください。どんな小さなことでも構いません。何か必ず、あるはずです。
1年生はこの3か月間、特に、大変だったと思います。中学校と敬和とは、かなり違っているからです。高校の勉強や敬和独自の行事に慣れるのに苦労したと思います。
初めて会う人ばかりで友達づくりも大変だったと思います。中学のとき、不登校で学校に行っていなかった人は、登校するだけでも大変だったことでしょう。
1学年の先生から聞いたことですが、1年生にはLHR委員会ができて、委員の生徒が中心にLHRの計画を立て、学年で楽しくすごすことができた、といいます。
敬和生らしい取り組みだな、と聞いていて思いました。1年生も確実に、敬和生に成長しているのを感じました。
今、皆さんの前に座っている2,3年生も、1年生のときは、皆さんと同じような経験をし、それを乗り越えてここにいます。先輩たちの背中を見て、これからも敬和生として成長して行って欲しいと思います。
2年生はクラス替えがありました。新しいクラスに慣れることは大変だったと思います。2年生という学年はなかなか難しい学年です。
1年の時に比べて、物事が客観的に見えるようになり、学校の欠点なども見えてきます。1年と3年に挟まれて、目標が設定しにくいのも2年生です。
しかし、そういう状態のときにこそ、人は成長しているのです。自分では気がつかないかもしれません。しかし、学年の先生方は気づいています。
ある先生から聞いたことですが、2年生にはリーダーが確実に育ってきているといいます。先生は、とても嬉しそうに話されていました。
クラス、行事、部活動などで、ほかの生徒に信頼されて、求心力をもったリーダーが生まれつつある、というのです。
秋からは、2年生が、学校の中心になります。その意味でも楽しみな学年です。
3年生は、すばらしいフェスティバルを作ってくれました。コロナの制限の続く中、あの日だけは、みんながグラウンドで、マスクを外し、思いっきり泣いたり笑ったり、楽しい時間をすごすことができました。
3年生が、それぞれが自分の役割をしっかり担ってくれたからです。1,2年生は、そういう3年生をリスペクトしたはずです。
また進路に向けて、勉強を今まで以上にがんばった人もたくさんいたと、聞いています。
多くの人にとって、4月からの生活では、出来たこと、やり遂げたと思えることがあったと思います。
しかし、中には、自分は特に何もやれていない、普通に生活していただけだ、という人もいるかもしれません。ところが、普通にやること、これも実は大変なことなのです。
皆さんの保護者のことを思い出してください。毎日、皆さんの親は、当たり前のことのように、食事を作ったり、外に働きに出ています。
しかし、食事を作ったり、働きに出るのがつらい時が、誰にでもあるのです。それでも、それを表に出さず、皆さんの親は働いているのです。人知れず、毎日、小さな闘いを闘っているのです。
何のための闘いでしょうか。
普通に生活するための闘いです。普通の生活とは私たちの日常のことです。多くの大人はそのために、毎日、働いているのです。
だから、皆さんが普通に学校生活を送っているだけだとしても、それも立派なことです。それぞれが、心のなかで、小さな闘いを闘ってきたはずだからです。
この1年半、世界は、新型コロナのために、以前の日常が失われました。私たちは、日常の大切さ、そしてどのような状況にあっても、希望を持ち続けることの大切さを学びました。
今日の聖書です。
「涙とともに種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。」
この「涙とともに種を蒔く人」に何があったのかはわかりません。きっと悲しいことがあったのでしょう。
それでも、この人は、絶望したり、やけになったりしないで、泣きながらも種を蒔きます。種を蒔くのは未来のためです。
今はどんなに悲しくても、種が芽を出し、豊かに実を結ぶ日を信じて、蒔き続けるというのです。
この詩編は古代イスラエルの人々が伝えたものです。イスラエルは当時、ペルシアやバビロニアなどの大国に囲まれた、弱く、小さな国でした。大国に支配されたり、外国に集団連行されたり、想像できないほどの苦難を経験しました。
そのような状況のなかでも、イスラエルの人々は希望を失いませんでした。なぜでしょうか。
彼らは、この世界の真の支配者は、ペルシアやバビロニアの王様ではないと知っていました。目には見えない、唯一の神様がおられる、その信仰をもち続けました。
だから、どのようなときにも希望を失うことがなかったのです。
「涙とともに種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。」この詩からは、彼らの信仰が、今も響いてきます。
私たちも、どんなに悲しい状況にあっても、希望をもって、種を蒔き続ける人でありたいと願います。
それでは有意義で楽しい夏休みをすごしてください。新学期、元気な皆さんと会えることを楽しみにしています。