お知らせ

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2021/05/31

今週の校長の話(2021.5.31)「幸福について」

校長 小田中 肇

【聖書:ルカによる福音書5章31-32節    讃美歌:520番】

医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである。

 

フェスティバルまであと2週間となりました。既に様々な準備が始まっていると思います。フェスティバルは、当日以上に、この準備期間が大切です。この準備期間に経験することが、それぞれ当日の輝きにつながります。
 

私はフェスティバルの時、学園全体が、ある幸福感に包まれるように感じます。特にエンディングの時にそれを感じます。
今日は、幸福ということについてお話したいと思います。
 

誰もが幸福な生活、幸せな人生を送りたいと願っています。不幸になりたいと思っている人はいません。
ところが、幸福であることは、何か、人生を深く生きることとは違う、そのように、考えられることが多いのです。
例えば、「あの人は、なんか幸せそうだな」「あの人は、本当に、おめでたいよ」と言ったとき、どこかに馬鹿にした気持ちが混ざっていないでしょうか。「幸せボケ」なんていう言葉もあります。
 

苦しんでいる人、悲しんでいる人の方が、人生を真面目に生きている、それに対して、幸福な人は、あまりものを考えず、人生を表面的にしか生きていない。私たちは、心のどこかでそのように考えていないでしょうか。そのため幸福について、人は深く考えようとしません。
 

ロシアの有名な小説家トルストイの「アンナ・カレーニナ」の出だしの文章は次のようなものです。
 

「幸福な家庭はみな同じように似ているが、不幸な家庭は、不幸のさまもそれぞれ違うものだ」
 

つまり、幸福な家庭など、どれも同じようで、小説にならないが、不幸な家庭はちがう。それぞれに物語がある、という意味です。
皆さんは、どのように感じるでしょうか。
私は、ちょっと違うな、と思います。
 

幸福な家庭が、みな同じ、などということはありません。幸福な家庭にも、それぞれの物語と歴史があると思います。幸福は、何もしないで、自然に生まれるものではないからです。
幸福な家庭も、幸福であるために、どれだけの苦労と忍耐、相手への思いやり、そして怒りと許し、さまざまな悲しみと喜びを経験してきたことでしょうか。それは他の人にはわかりません。
 

しかも、そのようにして作られた幸福も、永遠に続くものではありません。はかない夢のような幸福もあります。ちょっとしたことで失われてしまうことだってあります。
しかし、失われて行くものだからこそ、それは尊く、そして美しいのです。
私は、幸福こそ、人間が追及するべき、何よりも大切なことだと思います。
 

フランスの哲学者アランの書いた「幸福論」という本に、次のようなことが書かれていました。
 

「不幸になったり不満を覚えたりするのはたやすい。ただじっと座っていればいいのだ。人が自分を楽しませてくれるのを待っている王子のように。」
 

この王子は「不幸の王子」と呼ばれます。王子は自分からは何もしないで、ただ人が何かしてくれるのを待っているだけです。では、この王子は、なぜ不幸なのでしょうか。
 

アランは心と体を別々のものと考えません。2つはつながっていると考えます。
心と体は、コインの表と裏のように、同じものの2つの側面であると考えます。例えばコインの表が体ならば裏は心、それぞれ同じ人間の2つの側面です。
だから幸福になるためには、ただ待っているのではなく、自分から体を動かすことが大切だと言うのです。
 

「人がいらだったり、不機嫌だったりするのは、あまりに長く立ち続けたせいである。そんなときは、その人の不機嫌に対してあれこれ理屈をこねるのではなく、椅子を差し出してやるがいい。」
 

椅子を差し出すという、目に見える行為が、相手の気持ちを和らげる、そして、そこに幸福が生まれる、というのです。
 

またアランは、微笑むこと、笑うことの大切さを次のように述べます。
 

「幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ」
 

これは、どういう意味でしょうか。
幸せとは人が心で感じることです。それに対して、笑うことは体を通して行うことです。そして心と体はつながっています。
「だから先ず、声に出して笑ってみてはどうですか、人が、お互いに微笑み、一緒に楽しく笑うところに幸せは生まれるのだから。」そのように言っているように思えます。
 

これがアランの私たちに教えてくれた「幸福になる方法」です。
私は、敬和が、笑いの絶えない学校であって欲しいと思います。
 

それでは、聖書は幸福に、ついてどのように教えているのでしょうか。
今日の聖書は、イエスがレビという徴税人を、自分の弟子とする場面を描いています。
徴税人とは、ローマ帝国のために、人々から税金を集める人でした。人々からは、権力の手先と見なされ、軽蔑されていました。
イエスはレビに、自分について来るようにと呼びかけます。
レビは、全てを捨て、その呼びかけに応えて従います。
そして彼は嬉しくて、イエスを招いて、なんと宴会を催します。
 

しかし、それを見た人々は面白くありません。
何故、あんな徴税人と一緒に食事などするのですか、とイエスに質問します。
そのときのイエスの答えが今日の聖書の言葉です。
「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは罪びとを招くためである…」
軽蔑され、差別されていた徴税人を、自分の弟子に選んだイエスの意図は何だったのでしょうか。
 

イエスは、どんな人も、幸福になる権利がある、健康な人も病気の人も神様の前には、同じ尊い存在である、同じように幸福にならなければならない。
だから、自分は、人々に軽蔑され、苦しんでいる人を招くために来たのだ。
そのように、イエスは考えたのです。
イエスは、全ての人の幸福を、何よりも願ったからです。
 

ちなみに、このとき、イエスに招かれた徴税人レビは、後にマタイと呼ばれ、「マタイによる福音書」を書いたと伝えられています。
 

私たちもその恵みを覚えて今日の一日、ともに歩むものでありたいと願います。