自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2021/04/14
54回生の皆さん、ご入学おめでとうございます。このようにして、入学祝福礼拝を行うことのできることを、大変、嬉しく思います。昨年は新型コロナのため、6月に行われました。こうして、少しずつですが、日常が回復されつつあることに、あらためて喜びを覚えます。
54回生は、先週から、オリエンテーションとして3日間の学校生活をスタートさせました。いかがでしたか。敬和の生活がイメージできるようになりましたか。
敬和学園のことを、よく「自分探しの学校」と言います。今日は、この「自分探し」という言葉について、少しお話したいと思います。
先日、読んだある本の中に、江崎玲於奈という物理学者のお話が紹介されていました。江崎玲於奈さんは、1973年に、江崎ダイオードの発見によって、日本人として4人目のノーベル物理学賞を受賞された方です。江崎先生は、よく次のような質問をされるといいます。
「江崎ダイオードというのは、発明なのか、発見なのか」
江崎先生は、次のように説明されます。
「これは発見であって発明ではない。この点を明確にしたい。発明でも発見でもどちらでもいいというような曖昧なものではなくて、発見である。
発明と発見は大きく違うものであって、自分の功績は、こだわるけれど、発見である。」
発明と発見、どう違うのでしょうか。
発明とは何か新しいもの、今までないものを、人の創意工夫によって、作りだすことです。それに対して発見とは、既にそこにあるもの、そこに存在しているものを探し出し、明らかにすることです。
普通に考えれば、発明の方が、発見より価値があり、人間の役に立つことのように思えます。ところが江崎先生は、自分は、発明ではなく、発見をしたのだ、と強調されました。
新しい何かを作ったのではなく、自然のなかに既に存在していたもの、しかし、今まで人に気づかれずにいたもの、それを発見したのだ、というのです。その発見が、自分のノーベル物理学賞の受賞につながった。先生は、自然科学の研究で大切なのは、自然のなかに隠されている物質や法則を発見することである、そのように言われているように思いました。
私は、数学の教員ですが、確かに数学の様々な公式も、発明というよりも発見といった方がよい気がします。因数分解や2次方程式の解の公式も、昔、ある数学者が発見したものです。このことは、他の様々な分野においても言えることかもしれません。
たとえば、作曲家が今まで聞いたことのない、心奪われるようなメロディーを作曲したとします。その時、作曲家は、そのメロディーを自分が作ったとは思わないのではないでしょうか。むしろ、こんなにきれいなメロディーが、この世界、この宇宙にはある、今、自分は初めて、そのメロディーと出会った、そのように感じるのではないでしょうか。
ところで、私たちの「自分探し」も、これと同じことが言えると思います。つまり、私たちにとって、探すべき自分はすでに存在している、ただそれがどこにあるのか、それがどのような姿をしているのかは、まだ分からない。「自分探し」とは、新しい自分を作り出すことではなく、既に存在する自分を、あらためて発見する、ということです。重要なのは発明ではなく、発見だ、ということが、ここでも言えると思います。
ところで、自分探しが、既にあるものを見つけるだけだったら、簡単だ、と思うかもしれません。しかし、それは間違いです。
科学者が、今までだれも見たことのない物質や法則を発見するために、どれだけの時間と労力をその研究のために捧げるのか、作曲家が、誰も聞いたことのないメロディーを作曲するために、どれだけ人知れない努力と、産みの苦しみを経験するか、そのことを想像してみてください。それと同じように、自分探しにも、長い時間と、粘り強い努力、そして諦めない心をもつことが必要です。
ここで、この3月に卒業した、ある3年生の文章を紹介します。その生徒は入学当初、特にやりたいことはなく、いつも何の迷いもなく、楽な道を選択していたと言います。けれど、この楽な道を選択していた生き方が、実は、自分を苦しめていたということに気づきます。きっかけは1年生の時のフェスティバルでした。3年生の総合チーフの姿を見たときでした。そのときのことを次のように述べます。
「その姿は決して楽しそうではありませんでした。思うようにいかない毎日に苦しみ、フェスティバルが近づくにつれ、泣く回数が増えていったのです。私は、人の葛藤や苦労の経過を、こんなに近くで見たのは初めてでした。それと同時に、その先輩の姿は私の目に素晴らしく、輝いて映りました。」
さらに続けます。
「今まで自分が通ることのなかった「困難が伴う道」をあえて選択してみよう、そう私は、決心しました。苦労しながら成長し、その先にある大きな喜びを感じてみたくなったのです。」
この生徒は2年後、総合チーフとなり、その役割を見事にやり抜きました。
「自分探し」ということについても、次のように書いています。
「敬和学園と出会った3年前、自分探しとは、『自分の本当の気持ちを探すもの』と思っていました。それが、今の私には『将来どんな自分でありたいかを探す旅』へと変えられました。」
この生徒は、敬和の3年間で、本当の自分を発見したのだと思います。
しかし、それはそこで終わるのではなく、その旅を、さらなる旅へと導くものでした。
「私は気づきました。敬和学園の3年間は、自分探しの旅に出るための準備をしていたのだと、私の自分探しはこれからも続きます・・・」
このような文章です。敬和における3年間の自分探しの歩み、そして、これからもその旅を続けて行くという決意が込められた、素晴らしい文章です。
54回生の皆さんの自分探しの旅が始まりました。新しい旅立ちです。
それぞれが本当の自分を発見してください。それは必ず見つかります。
なぜなら、その自分は、すでに存在しているからです。あなたがまだ、それに気が付いていないだけだからです。それは、あなたに発見されることを待っています。
今日の聖書です。
「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者は開かれる。」
あなたの人生において、最も大切なもの、それを敬和学園の3年間で求めてください。それは必ず与えられます。探してください。必ず見つかります。門を叩いてください。必ず開かれます。
粘り強く、求め続けてください。一度や二度、門を叩いて開けてもらえないからと言って、諦めてはいけません。門が開くまで、何度でも叩いてください。必ず門は開かれます。
なぜなら、人間にとって本当に大切なもの、必要なものは、その人の人生に既に備えられているからです。それをキリスト教では、神の恵みとよびます。それは、あなたに見いだされることを待っているのです。
54回生の皆さん、そして保護者の皆さま、あらためてご入学おめでとうございます。皆さん、お一人お一人の歩みが、神様に祝福され、恵み豊かなものとなることを願います。