のぞみ寮通信

のぞみ通信

2018/05/28

のぞみ通信 2018年5月25日 第237号

初めてチャペルで行った寮祭の礼拝

 

「素晴らしい寮生活」

                 英語科教諭・寮祭講師 辻元 秀夫

 私はよく変な先生と言われます。私がこんな変な人になったのは、大学四年間を寮で過ごしたからです。大学の寮で、私は今までに出会ったこともないような奇妙な人々と出会いました。しかも、上級生に行けば行くほど、奇妙奇天烈な人々になってゆくのです。私は大学の寮で、自分らしく、個性的に生きてゆきたいと思うようになり、また、そうした奇妙な個性的な人たちが、お互いにリスペクトし合って、一緒に何かをやる楽しさを学びました。同じになって同じことをするのではない。個性的で孤立するのでもない。個性的でありながら、お互いの個性をリスペクトして、一緒に何かをやる楽しさ。そしてそれが実に創造的であること。恐らく、これ以上に重要な学びはありません。
 個性的である時、他者をリスペクトするということはとても大切です。好きになる必要はありません。苦手な人がいてもいい。しかし、その人の存在はリスペクトするのです。それをキリスト教的に言うなら、全ての存在は神に作られ、必要とされ、愛されている。そのことを頭の片隅にいつも持っておくこと。これがリスペクトということだと私は思います。

Ⅰ 価値観
 何かの良し悪しを判断する時、必ずそこに、判断のモノサシが存在します。それを価値観といいます。
 男子はスカートをはきません。なぜでしょう?それは、「男がスカートをはくのはおかしい」という価値観があるからです。貧乏よりも金持ちのほうが良い、というのも価値観です。何を美しいと感じるか、何を正しいと思うか、これらも全て価値観です。
 このような価値観は、生まれてから言語を習得すると同時に、わたしたちに刷り込まれてゆきます。
 わたしたちは自分で考え、判断しているように見えて、実際は、このように生まれた時から刷り込まれた価値観によって判断させられていると言わなければなりません。
 価値観というものは、生まれながらに刷り込まれているため、普段はその存在にすら気づきません。存在に気づかない、ということは、あたりまえのこととして、疑うことすらしません。これを価値観の絶対化と言います。
 ところが、この価値観は、場所によって時代によって変わるものであり、絶対的なものではなく、相対的なものなのです。このことを知るのは、とても大切なことです。
 価値観が絶対化されていると、本当の意味で考えることができません。それだけでなく、不幸になります。逃げ場がないのです。うまくやれているうちは良いのですが、いつか必ず限界が来ます。恐らく日本人の持つ価値観で、もっとも特徴的なのは、「他人の評価」かも知れません。自分の評価は他人が決めるのです。自分の価値を自分で認めることができない。そこで、人から良く思われようと努力し、人の目を気にし、世間体を気にし、偏差値を気にするのです。この生き方は、良い面もありますが、しんどい生き方です。子供のうちは「良い子」であることを求められ、大人になっては、「良い会社で良い年収をもらい、良い生活」をしなければならないというプレッシャーに苦しみます。本来、価値観は多様なものであり、相対的なものである。自分で考えることができるようになるには、まず、ここから出発しなければなりません。
 世間の価値観に従順であることより、多様な価値観を学び、自分の価値観を作り上げ、人からの評価ではなく、自分が正しいと信じた道をつらぬき、それを自分で評価できる人。本当の意味で自分で考え、自分の人生を生きることが出来る人になること。これが個性的な人間になる、ということだと思います。
 敬和学園の価値観は、「この世界に存在するものは全て、神から愛されている。だから、この世にいらないものはない。全ての存在が尊い。人間が作ったモノサシで、人間の価値を測ることはできない」というものです。
 価値観は多様であって良い。多様な価値観を持つ人々が、自分らしく、お互いに尊重しあって生きる。これが敬和学園の目指すものです。
 このなかに「自分に自信がない」「自分はダメな人間だ」「自分には価値がない」と考えている人はいませんか?もしいるなら、あなたはどのようなモノサシで自分を測っているのか、考えてみてください。恐らくそれは人間が作ったモノサシに違いありません。そして、そのモノサシだけが正しいモノサシだと思い込まされているかも知れません。もしそうなら、そのモノサシを疑ってみてください。そして、この世界に存在するものは全て尊く、神に愛されているという価値観もあることを知って欲しいのです。
 敬和学園ももちろん、モノサシを持っています。受験勉強に偏らない、人格教育。しかし、これも一つのモノサシです。人間の営みである限り、必ずそこにモノサシがあるのです。敬和が他の学校と違っているのは、他の学校と違うモノサシを持っているからではありません。人間の作ったモノサシで人を測ることはできない。このような神に対する畏れを持つ学校。そこが、一番大きな違いなのです。わたしたちが、「目に見えないものに目を注ごう」「本当に大切なのは目に見えないこと」と言うのは、そういうことです。

Ⅱ寮とは
A多様性と寛容
 寮で学ぶべきこと。これを一言で言うと、「多様な価値観を持つ人と、仲良く暮らすこと」です。これを「多様性と寛容」といいます。
 寮にはさまざまな背景を持った人がいますね。そして様々な価値観を持った人がいます。そういう中で、どのようにしたら一緒に何かをやれるのか?それを経験できるのが寮だと思います。それが世界が今、最も必要としている真の学力です。
 これをもう少し易しい言い方にすると、「みんな違っていていい。個性的であっていい。しかし、孤立してはならない」ということになります。皆が同じになって同じことをするのではない。みんな違って孤立するのでもない。多様なメンバーが一緒に何かをすることが、楽しく、創造的なことなのです。無口で人間関係が苦手でも良いのです。そういう存在として、寮の中で受け入れられていれば良いのです。
 多様な価値観を持った人が一緒に暮らすこと。これは、言葉で言うのは簡単ですが、実際に行うのは難しい。そこには、知恵と工夫が必要です。寮で学ぶのは、その知恵と工夫です。その工夫は、試行錯誤、失敗があっても良いのです。
 わたしからのアドバイスは一つです。どれほど対立しても、好きになれなくても、リスペクトを忘れてはいけません。対立し、好きになれない相手も、神に愛されている。そのことを少しだけ思い出せばよいのです。

B 本物の教育
  寮はまた、本物の教育が受けられる場所です。本物の教育とは、本物の人間を育てる教育です。
  AIやロボット、バーチャルリアリティー、インターネットなど、便利なものが世の中に満ち溢れています。
 しかし忘れてはならないのは、何か新しいものを取り入れれば、私たちは何かを捨てなければなりません。それは人の人生、能力、受容力に限りがあるからです。わたしたちは、無限に便利なものを受け入れることはできないのです。この「何かを得たとき、必ず代償を払う」という考え方は、覚えておくべきです。それが分かっていれば、人に騙されることもないでしょう。多くを所有すると、一つへの愛着が減る。そういうことです。
 インターネットで、たくさんの情報を手に入れることができるようになりました。しかし、情報量が増えると、じっくり考えることができなくなります。じっくり考えることが出来なければ、どれほど情報があっても役に立ちません。じっくり考える力を養うには、読書に勝るものはありません。
 仮想現実が実現しようとしています。しかし、本当に大切なのは、本物にじかに触れ、感性を養うことです。雨に打たれ、雪の冷たさに手を震わせ、土に触って大地を感じ、時には虫に刺された痛みを感じること。このようなことが本物の人間を作るのです。
 SNSで世界中の誰とでもコミュニケーションができるようになりました。しかし本当に大切なのは目の前にいる友人の心の声に耳を傾けることです。その痛みと喜びに共感し、時間を共有することです。
 正解をAIが出し、ロボットが誤りなくそれを実行する時代が来ようとしています。しかし本当に大切なのは、間違え、悩みながら、自分自身で何かを考え、実行することです。
 寮は不便なところです。スマホは使えません。しかし、よく考えてみて下さい、スマホを使えないことは本当に不自由でしょうか?むしろ、スマホに多くの時間をとられることは、スマホの奴隷になっていると言えないでしょうか。スマホは時間泥棒です。スマホが与えてくれる情報は、自分を自分以上の何者かであると錯覚させます。スマホやインターネットのない状況。それは、あなたがあなた自身であるということです。それが、あなたの本来の姿なのです。インターネットを禁止された寮生が、筋トレを始めたという話がありました。わたしはとても愉快になりました。そのような状況の中でどうすれば楽しく生きられるか、それが本当の自分の力ではないでしょうか。
 寮では様々な失敗を経験するでしょう。自分の弱さ、いたらなさと向き合わされることでしょう。しかし、人はそのようにして成長するのです。わたしが受験勉強を評価しないのは、それが失敗を許さないからです。失敗の許されない環境で、常に正解を求められ、その正解にいかに速くたどりつけるかだけを訓練するからです。受験制度がどれほど変わろうが、この「失敗を許さない」という性質を持つ限り、本当の教育にはなりえないのです。
 わたしたちは、教師も含めて、不完全な存在です。苦しみ、悩み、時に傷つけあうこともあります。しかし、それらを通して共に成長し、人生で一度だけのこの青春時代を、他のものとは交換出来ない、自分だけのものにするのです。
  本物の人間になるということは、自分がかけがえのない存在になるということです。いつでも交換できる部品になることではありません。正解は、AIとロボットが出してくれるでしょう。しかし、失敗から学び、人の弱さに共感できるのは、人間にしかできないことなのです。私たちは、一度だけの人生を、自分自身になるために用いなければなりません。
  皆さんが流す汗、涙の一つひとつが、皆さんを本物の人間にしています。多様な価値観に触れ、自分でものを考えられる人になり、本物に触れながら、どうか本物の人間になって下さい。そうしたみなさんの存在が、敬和学園を輝かせているのです。どうぞそのことに誇りを持って、これからの寮生活を送って欲しいと思います。結果を急ぐことはありません。失敗も大いにしてください。苦しいこともあるでしょう。しかし、卒寮するとき、それら全てに意味があったことを、皆さんは悟るでしょう。健闘を祈ります。

(4月28日 寮祭の礼拝より)

 

 

 

 

< 寮生リレー >

 「のぞみ寮での出会い」        H.A(みぎわ館1年 長岡市)

 入寮から二週間程たち、やっと寮での生活に慣れ始めた頃、寮祭の練習は始まりました。私はこの時期、こんなことを考えていました。「もっとみんなと仲良くなりたい」「もっとみんなのことを知りたい」と。
  みぎわ館の51回生は、入寮初日からすぐに打ち解け合うことができていました。しかし、よく話す子と話さない子の差が生まれてしまったり、グループ化が目立ってきたりと、本当の意味で仲良くなったとは言い難い状況でした。そんな中、寮祭のシナリオの読み合わせがあり、それぞれ配役が決まり練習が始まりました。みんな個性豊かなキャラの役だったので、初めはとても恥ずかしく、自分の殻を破ることができていませんでした。でも、そんなことではダメだと思い、私は自らその役になりきり、練習に全力で取り組みました。
  すると、周りの人から面白いと褒められ、いつもはあまり話し掛けられなかった子からも、声をかけてもらうようになりました。その頃から、同学年の子や先輩とも仲良くなることができたと思います。それからしばらくたち、内容が形になった頃、連日続いた練習や学校の疲れが出てきて、真剣に練習に取り組めない様子が目立ってきました。そんな時、一人の子が「疲れているけど頑張ろう」と声を掛けてくれました。そのおかげでみんなやる気を取り戻し、無事に本番を迎えることができました。本番当日、全員が全力で取り組むことができ、良い発表ができたと思います。
  私は、寮祭の練習を通し、さらに仲良くなったこの寮の仲間たちと、3年間で本当に信頼し合える一生の友になれたらいいなと思います。

 

 

 

「自分の変化」        K.S (光風館2年 愛知県)

 51回生の入寮日。この日を迎えたということは自分が先輩になるという意味です。しかし、自分の中でひとつの違和感がありました。光風館50回生の約二倍の20人が入寮するということで、みんなは彼らとの対面を心待ちにしている中、自分だけは違うことを考えていました。緊張・不安・喜びではなく、それは入寮してくる1年生へ対する恐怖心でした。
  中学の頃、まともに後輩と呼べる後輩が居なかった自分、さらには同級生とのトラブルにより、人と関わることに恐怖心を抱くようになりました。しかし、関わらないで生活することは不可能なので、勇気を振り絞って51回生と関わっていくことにしました。すると、僕の想像以上にみんなは優しくて、元気でオープンな後輩達でした。寮生活をしていく中で、いろんなことを教えなくてはなりませんが、そんな僕の話をちゃんと聞いてくれました。これだけのことでも僕にとっては、とても嬉しく新鮮な体験でした。
 それからしばらく経ったある日、ついに寮祭の準備期間に入り、2年生が考えた劇のネタを教える時がやってきました。今年の光風館は「走れメロス」をマネした劇を考えました。これを聞いた1年生は恥ずかしがっていた子もいましたが、ほとんどが楽しそうに劇の練習をしていました。演技指導を僕はしていましたが、その光景を見て、何だかこっちまで楽しい気持ちになりました。そして、何度も練習を重ねて迎えた寮祭本番では、みんな楽しそうに張り切って劇をしていました。僕はこの一か月で彼らからいろんなことを教えてもらった気がします。それは、人の優しさと人と関わることの楽しさと喜びです。

 

 

 

「完璧なチーム」       N.R(めぐみ館2年 兵庫県)

   寮祭、それは新1年生がのぞみ寮生として認められるための最終関門だと思います。なぜなら入寮した1年生のチームワークが初めて試される行事だからです。ですがそれは決して1年生だけのものではありません。試されるのは「館のチームワーク」も、なのです。この寮祭は51回生を迎えた「新めぐみ館」のデビュー戦です。そのため2年生は1年生が入寮する前から、寮祭の準備を始めていました。
  入寮した1年生はエネルギーに溢れていて、個性豊かで最高でした。練習が始まってからは、2年生の寮祭に対する気持ちの差が出現し、目立ち、思うように進まなくなっていきました。1年間同じ空間で過ごして来ましたが、まだまだ完璧なチームとはいえません。大きな壁にぶつかった私たちは話し合いをしました。ここではいつもは進んで発言しない人が、今思っていることや、自分のことを話してくれました。それのすべてが寮祭に関係のあることではありませんでした。ですが、その場所で私たちは、自分の弱さを伝えることができました。私は「人に弱さを見せられる」ということは、本当に強いことだと心から思いました。
 寮祭の主役は1年生です。ですが2年生も同じように主役でした。そして寮祭を通して2年生は大きく成長できました。それは一生懸命な1年生と、温かい3年生の見守りがあったからでした。これからも私たちはたくさんの大きな壁にぶつかると思います。そんなときは話し合い、他者を知り、多くの力を借りて少しずつ成長していきたいです。

 

 

 

「乗り越えなければならない壁」         M.M(大望館1年 燕市) 
 寮生が入寮してから乗り越えなければならない最初の『壁』寮祭。僕は、出し物をすることがとても嫌だった。
 人前で物事をするときに、緊張のあまり、今やっていることをド忘れし、失敗してしまうからだ。
 1年生が入寮してから2週間がたち、寮祭に向けた練習が、本格的に始まった。僕は、寮祭の練習を始めたばかりの頃、正直「面倒くさいなあ」という気持ちを感じていたが、練習を続けているうちに、「辛いことでも終わってしまえば過去のできごとだ」と思うようになった。開き直ってからの練習は、自分の中で、スムーズに進むようになった。
 そして迎えた本番。やはり緊張してしまい、練習通りのようなパフォーマンスを発揮することができなかった。しかし、不思議なことに「失敗してしまった」という後ろめたさよりも、「やり切った」という気持ちのほうが強かった。僕は、この『越えなければならない壁』をついに超えることができた。今回の件で、嫌なことでも挑戦することで、見えてくることがあるということを学んだ。

 

 


教師からの一言       小菅 真子(めぐみ館担任)
  「寮祭」には、県内外からたくさんの保護者様にお出かけいただきましたこと、御礼申し上げます。今年度の寮祭は、例年と異なった形式で行いました。メニューも趣向を凝らし、お子様、保護者様同士が交わりを持ちながら食事ができるように、テーブルを設置しての立食パーティにいたしました。「礼拝」と「各館の出し物」は、チャペルで行いました。初めての取り組みでしたので、保護者様へアンケートのご協力もお願いいたしました。記載してくださったご意見・ご感想は、どれも温かく、励まされるものばかりで保護者様ののぞみ寮に対しての期待と願いが強く伝わってきました。。保護者様に参加していただける行事も増やしていきたいと検討しております。

「寮祭献金のご報告」
 「 敬和学園五十周年・九州教区」へ         9万2千円
  西蒲区突風被害を覚えて 「Taibow Coffee」へ   12万円     
     ありがとうございました。