自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2016/06/06
しばらく前のことですが、劇団四季のミュージカルの「冒険者たち ガンバと15匹の仲間」を20年ほど前に見たのを思い出しました。
思い出したわけは「冒険者たち ガンバと15匹の仲間」の原作者は斎藤敦夫という方ですが、この方が11日の土曜日、フェスティバルの2日目に敬和学園大学で、宮沢賢治のファンタジーをテーマに講演会をされることを知ったからです。
斎藤さんは東京に住んでおられますが、新潟と深い関係のある人です
そもそも生まれが新潟市内です。
そして小学校から高校までは長岡で過ごされました。
齋藤さんの「冒険者たち ガンバと15匹の仲間」は1974年に出版されましたが、それ以来子どもにずっと愛されてきました。
タイトルからもわかるのですが、ワクワク・ドキドキでいっぱいのお話です。
主人公は町ネズミのガンバです。
ガンバは力が強く、時々やりすぎて、乱暴者と思われていました。
本当は正義感にあふれていて、優しさを内に秘めた照れ屋でもありました。
ある日、友だちから遊びの誘いを受けます。
船乗りネズミたちが海辺の倉庫で集会を開いているというのです。
それを聞いたガンバはいそいそと出かけていきます。
ガンバは船乗りネズミたちとすぐに仲良くなります。
ところが盛り上がっている最中に、血まみれになったネズミが飛び込んできます。
それは島ネズミの忠太でした。
忠太の話によると、彼が住んでいる島がイタチのノロイ一族に襲われます。
そこで助けを求めるために必死の思いで逃げ出してきたというのです。
そして自分の家族や仲間を助けてほしいと船乗りネズミたちに訴えます。
しかし、船乗りネズミたちはノロイの名前を聞いたとたん、それまでの勢いはどこへやら、シュンとなって黙り込みます。
彼らはノロイの恐ろしさを知っていたので、助けに行く勇気が出てこなかったのです。
それを見ていたガンバはカッときます。
たとえ誰が行かなくても、自分一人で行くとタンカを切りました。
こうして忠太と一緒に船に乗り込みます。
ところがいったんは尻込みしたものの、何の手助けもしないでは、ネズミがすたると考えた15匹が船に乗り込んできます。
こうしてガンバをリーダーとした一行が島ネズミの救出に向かいます。
彼らは途中で隠れ住んでいた島ネズミたちに歓迎されます。
しかしガンバたちの目的を知ったとたん、外へ出そうとしなくなりました。
島ネズミはガンバたちの勇気は認めましたが、イタチたちとの戦いで勝てるとは思わなかったのです。
そこでもしガンバたちが戦いに負けたら、自分たちが隠れ住んでいることがバレます。
そうなったら殺されてしまうと考えたのです。
しかしガンバたちは隙をついて逃げだし、イタチたちとの戦いに向かいます。
ガンバたちはイタチたちとの戦いになかなか勝てなかったのですが、最後は自ら命をかけることによって勝つことができました。
これが「冒険者たち ガンバと15匹の仲間たち」のだいたいのストーリーです。
この物語の魅力、それは力が強いだけで物事を深く考えることのなかったガンバが、仲間への愛から大きく成長していく姿にあります。
ガンバの成長に自分を重ねて読むことができます。
今日のところでイエス様は弟子たちに次のように言われました。
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように互いに愛しあいなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。
友のために命を捨てるというのは、死になさいということではありません。
どのように生きたらいいのかを言っているのです。
それも、その人が一番輝けるような生き方とは何かを語っているのです。
ここに出てくる「命」という言葉ですが、これは一般的な人間の命というだけの意味ではありません。
たとえばバスケットボール命、サッカー命、歌うこと命、ジャズ命という人がいます。この場合の命というのは、自分が大好きなもの、大事にしているものを指します。
それに触れている時が、自分が一番幸せを感じられる、いきいきできる、そういうもののことです。
それをただ自分の楽しみのためだけに使うのではなく、ただやりたいかいらやるというのではなく、自分以外の他者のために使う時、人はそれまでに味わったことにないいきいきとした気持ちになり、達成感をもつことができるということです。
みなさんは今金曜日土曜日にあるフェスティバルに向けて取り組んでいます。
どうでしょうか、うまくいっていることより、うまくいっていないと感じることが多いということはありませんか。
人間関係において、どうしてわかってくれないの、どうしてやってくれないの、と行き違いや不信感でたまらなくなっている人がいるかもしれません。
空回りしているような自分や孤立感でいっぱいの自分に嫌気がさしている人がいるかもしれません。
そういう必死になっている人や取り組んでいる人を横目に、しらっとした気分の人、自分には関係ないとやり過ごそうとしている人がいるかもしれません。
一つの行事をするにしても、人それぞれにテンションや取り組み方、受け止め方が違うのです。
違っているからダメだということではありません。
それを承知の上でイエス様はいわれたのです。
「互いに愛しあい」。
この場合の愛するというのは、そういう違いを持った相手、他者を大切にしなさい。その存在をしっかり受け止めなさいということです。
好きとか嫌いとかの自らの感情によってすべてを決めるのではなく、自分以外の存在を優先しなければならない時が人にはあるということです
他者の存在や働きを大切にするために、自分の命つまり大切にしているもの、たとえば考える力や自分の時間を、その相手のために使うということです。
それによって、思いもかけない喜びが自分の内側から湧き上がってくるのです。
たった一言のねぎらいが、相手をどれだけ元気にすることになるのか、ちょっと手を貸すだけでどれほど感謝されるのか、そうしたことで自分の存在の意味を実感できるのが今です。
授業への集中とフェスティバルへの集中、しっかり切り替えながら、新しい1週間に取り組みましょう。
今みなさんは間違いなく「フェスティバル 私と連合の100数十名の仲間」の時間を過ごしているのです。
ガンバたちと同じような喜びを持ち、成長する時間を過ごしているのです。