毎日の礼拝

校長のお話

2010/03/04

「食堂かたつむり」(申命記8章3節)

「食堂かたつむり」という映画が上映中です。
主演は柴咲コウです。原作は小川糸という作家です。


25歳の女性倫子は食べ物屋さんを開くのが夢でした。
ところが、そのためにコツコツためた数百万円のお金と買い集めてきた調理道具や家財道具一切を、恋人であったインド人に持ち逃げされます。
同時に多くのものを失ったショックから倫子さんは声までも失います。
言葉がまったく出なくなってしまったのです。
行く当てのなくなった彼女は、祖母が造り続けた糠漬けの入れ物を抱えて、10年前に出てから一度も帰らなかったふるさとに戻ります。
地元に戻った倫子はこれからどうやって生きていこうか、何をしたらいいかを考えます。
そこで彼女が決めたこと、それは夢であった食べ物屋さんを始めることでした。
その店は今風のカフェでもなくレストンランでもなく食堂です。
実家の敷地内にある物置小屋を食堂に改造して、一日一組のお客さんだけ相手に、地地元の野菜や魚介類で作る料理を出すことにしました。
食堂の名前はお店をゆっくり生きて生きたいとの願いから「かたつむり」とします。

 
この小説の魅力は倫子が作る料理のすばらしさです。
アイデアに富んでいます。
その日迎えるお客さんに出す料理は、事前にファックスや手紙でやり取りしながら考えるのです。
時にはあっと驚くような料理が出てきます。
その料理を食べることによって人生が変わる人が出てきます。
たとえば愛する人を亡くして、それからずっと黒の喪服で過ごしている老婦人のために倫子は次のようなメニューを考えます。
食前酒にマタタビ酒のカクテル、
前菜はりんごの糠漬け、カキとアマダイのカルパッチョ、
スープは比内地鶏を丸ごと一羽焼酎で煮込んだサムゲタンスープ、
メインディシュは子羊のローストと野生のキノコのガーリックソテー、
付け合せは新米を使ったカラスミのリゾット、
それから柚子のシャーベット、
そしてデザートはマスカルポーネのティラミス、バニラアイスクリームを添えて、濃い目に入れたエスプレッソコーヒー。
読み上げるだけでも「おいしさ」が伝わってきます。
食べたいなあと思います。

 
でも大変ボリュームのある濃厚な料理だということもわかります。
老人がこれだけ濃厚な料理を食べられるだろうかという疑問が残ります。
倫子がなぜこのようなメニューをわざわざ考えたかです。
倫子がこれらのメニュー料理に託した願いは、人生は終わった後は死ぬのを待つだけと思っている老婦人に、この世にはまだまだ知らない世界が広がっていることを知らせ、心のまぶたが閉じかけているそれをもう一度ばっちり開かれるようにしてあげたいということでした。
そうした思いがあって作った、若い人でも食べきれないような料理でしたが、老婦人はそれら全部をゆっくり時間をかけて平らげて帰って行ったのです。
そして数日後、あれほどまでにかたくなに黒の喪服しか着なかった彼女が、晴れやから洋服を着て、しかも自分の足で杖に頼ることなく町の中を歩くようになります。

 
この老婦人の変化、再び生きる希望をもてるようになったことを、聖書の表現にすると次のようになります。
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」。
人が生きるということとはどういうことでしょうか。
老婦人は愛する人がなくなってから何十年もの間、生きる希望を持ってはいませんでした。
それではその何十年もの間何も食べなかったかというとそうではありません。
3度3度の食事は食べていたはずです。
食べていたにもかかわらず、生きているとは言いがたい毎日だったわけです。
その老婦人が倫子の考えたメニューを食べることによって、生きる気力と希望を取り戻したのです。
人が生きるとはどういうことか、そして希望を持つということがどういうことか、老婦人が教えてくれています。
生きるとは、そして希望を持つとは、他者との関わりをもつということです。
自分以外の人間に関心を持つということです。
どの洋服を着ようかと考える、その洋服を着て街中を歩くということは、わたしを見てほしい、わたしに関心を持ってほしいということであり、会話を交わしたい、関わりを持ちたいということです。
倫子の作った料理に特別な食材や香辛料が入っていたわけではありません。
その料理が特別であったとしたら、それはそこに料理の作り手の老婦人に対する生きる気力を取り戻してほしい、違う世界を見てほしいとの願いと祈りという目に見えないものが込められていることです。

 
倫子には料理を作る才能がありました。
そして、その才能を他の誰かのために使うことによって、やがて自分自身の声を取り戻し話すことができるようになります。
生きる希望を取り戻すことになりました。
他者のために自分の才能と力を使うことが、結果的に自分を一番生かすことになる、自分のためになるということです。
「人はパンだけで生きる」というのは自分のことだけを考えていることであり、自分中心の生き方です。
それはいいかにも自分を大切にしているようで本当はそうではないのです。
そこからは自分を生かす何も生まれてきません。
それに対して「主の口から出るすべての言葉によって生きる」という生き方があります。
それは他者に関心を持って、その他者のために自分の時間や能力を使うことです。
敬和学園の毎日の生活、そして学習はそれを大切にしています。
ですから、敬和生活に真正面から取り組むことを通して、自分を輝かせることができるのです。
そのことを心に刻みながら、それぞれの学年を仕上げていきましょう。