毎日の礼拝

校長のお話

2015/10/19

「先生と迷い猫」(コリントの信徒への手紙3章6~7節)

今上映されている映画に「先生と迷い猫」があります。

タイトルが気になったこともあって観てきました。

先生というのは中学校の元校長先生のことです。

退職してから時間が経っているようで、どう見ても70歳は超えています。

この人を近所の人たちは「校長先生」と呼んであいさつをします。

なぜ学校を辞めてかなり経っているにもかかわらず校長先生と呼ぶのかですが。

それはこの人の見た目、歩く姿に関係があると思われます。

たぶん先生はぎっくり腰をやったことがあると思います。

その腰が痛むのでそれをかばうとお尻が後ろに引けます。

その分バランスをとるために胸を突きだして歩くわけです。

腰を痛めた人ならこの感覚よくわかると思います。

本人はそうやってまっすぐ立っているつもりなのですが、周りから見れば何かそっくり返っている、態度が大きい、偉そうに見えます。

つまり校長先生と呼ぶのは、尊敬の意味を込めているというよりは、何をいつまで偉そうにしているの、という皮肉を込めてのことだろうと思われます。

 

 

先生本当は内気シャイ、口下手です。

卒業生からもらった色紙に「愛感同一」と書いてありましたが、その意味は何ですかと尋ねられた時、「がんばれ」という意味だと答えたのですが、本当は英語の「I can do it」にかけたダジャレであったのには笑わされます。

そうしたおもしろさも周りの人にはわかってもらえないでいたようです。

先生はしばらく前に奥さんを亡くし一人暮らしです。

先生の家に毎日のようにやってくるネコがいました。

ノラネコなのですが、人によく慣れていて、校長先生の家にやってきては奥さんから餌をもらい可愛がってもらっていました。

先生の奥さんはこのネコを「ミイ」と呼んでいました。

その奥さんが亡くなってしばらく経つのですが、ミイは毎日のようにやってきて、作ってもらっていたネコのくぐり戸から入ってきて仏壇の前にちょこんと座るのでした。ところが先生はミイがやってくるのが気に入りませんでした。

それはミイが来るたびに奥さんのことを思い出すからでした。

忘れたくはない、けれど思い出すのは辛いという矛盾した話なのですが、先生はその矛盾した感情をミイにぶつけていたのでした。

ある日先生は決心をしてネコのくぐり戸をガムテープでがっちり塞ぎます。

はじめは訳が分からず泣いていたミイですが、やがてあきらめてどこかに行ってしまいます。

その日を境にミイは姿を見せなくなりました。

先生はホッとしたような気持になったのですが、やがて自分が大切なものを失ったことに気づきます。

小さなノラネコが毎日の生活に欠かせない存在であったことがわかりました。

 

 

そしてネコ探しを始めます。

すると自分と同じようにミイを探している人たちがいることがわかってきました。

美容院のおばさんはタマコと呼んで毎日キャットフードを食べさせていました。

クリーニング屋さんの手伝いをしているお姉さんはソラと呼んで可愛がっていました。バスから降りてくる中学生の女の子はチヒロと呼んでいました。

彼女は学校でイジメにあって、それを誰にも打ち明けることができず、自ら死を選ぼうとした時に、目の前に現れたノラネコがそれを思いとどまらせてくれたという体験をします。

そこで命を救ってくれたネコにチヒロと名前を付けて、バスの停留所のベンチの下で毎日待っていてくれるチヒロにその一日あったことを話すのを日課にしていました。ネコ探しを通して出会った人たちは、一緒に「迷い猫探しています」のチラシを作りあちこちに張ってもらいます。

先生は趣味のカメラに望遠レンズをつけて歩き回ります。

よく似たネコを見つけた時には、電柱に登りさらにカメラを構えて探します。

それを下から見つけたお巡りさんに不審者と間違われて警察に連れて行かれます。

車の下で猫が動いているのを見た時は這いつくばるような格好をします。

上を見たり下を見たりするその恰好は以前のようなそっくり返ったものではありませんでした。

腰をかがめたような低い姿勢になっていたのです。

ネコ探しの最中に町役場のお兄さんから尋ねられます。

「なぜ先生になろうと思ったのか。先生になって楽しかったのか」。

それに対して先生は答えました。

「楽しかった。少なくとも校長になる前までは」。

さらに言いました。

「子どもたちは手をかけてやればやるほど成長していく」。

手をかけるというのは、キリスト教的に言えば、愛するということです。

人は愛されることによって成長できるということです。

その言葉には、自分を変えたいけれど変えられない、周囲の人と仲良くしたい、けれどそれがうまくできないもどかしさが込められていました。

先生はネコ探しの途中で腰が痛くなり動けなくなり、それに加えてお腹も空いていたのか、神社の境内であおむけにひっくり返ります。

その姿を見つけた美容院のおばさんが介抱しながら一言言いました。

「校長先生も変わったね」。

そこにはそっくり返ったような偉そうな人はもういませんでした。

 

 

いなくなったノラネコを探す行為というのは、別に胸を張って言うようなことではありません。

ごく小さな事柄です。

けれどその小さな命を大切に考え、小さな存在を探すために一生懸命になる時、自分の力ではどうすることもできなかった希望が形になっていったのです。

このことからわかるのは、先生がそれまで自分を変えることができなかったのは、自分に手をかけていなかったからだということです。

本当の意味で自分を大切にする、自分を愛することができていなかったからです。

自分を大切にするということは自己中心的になることではありません。

周りの人への気遣いをすることです。

そして周りの人を受け入れることです。

先生はミイという小さな存在を受け入れようとした時に自分の希望が実現し始めたのです。

それは今日の聖書の言葉で言うならば、成長させてくださるのは神様です、ということが具体化したのです。

そこに私たちが大切にしなければならない真理と毎日の生活があります。