月刊敬和新聞

2008年7月号より「太夫浜から在校生保護者Aさんへの手紙 -フェスティバルを終えて-」

 小西二巳夫(校長)

フェスティバルの振り返りは行われていますか
 毎年フェスティバルにお出でくださること、その上メールでご意見等を送ってくださったことに感謝いたします。フェスティバルは保護者のみなさまのあたたかいまなざしがあってこそのものです。屋外部門を本部と保護者席から見ますと、子どもたちは自分たちだけが楽しんでいるように見えます。しかし子どもたちのスタンド側から正面を見ますと、たくさんの人たちのまなざしの中に自分たちがいることがわかります。見られていると肌で感じるからこそエネルギーがわいてくるのです。チャペルで行う演劇と合唱はなおさらそうです。見られている=愛されている、を実感する中で、それぞれの自分の内側にあるものが引き出されていきます。

短いスパーン
 お尋ねのことはフェスティバル直後に学校として反省、振り返りをどのように行っているかですが、一般的な意味でのそれはとりたててしておりません。
 むしろ意識的にしていないといったほうがよいでしょうか。教職員の間ではフェスティバル前後の職員会議を中心に時間をかけて話し合います。それを子どもたちの間で行わないのは、短いスパーンで物事を考えさせたくない、完結させたくないからです。大切なことは一人の子どもに三回、それぞれの各学年で、つまり違う立場で行事を体験してもらうということです。敬和学園に与えられた教育の時間は三年です。それを短いスパーンに区切ることによって感性と想像力のない人間に育ててしまうことになるのではないでしょうか。
 今の日本の教育はすぐに答を出させるということに偏りすぎています。それによって物事を深く考えることをしない人を作り出しているように思います。敬和学園は子どもたちに深く考えることができる人になってもらいたいのです。

過去は後ろにあるもの?
 いわゆる振り返りをしないのはキリスト教の考え方とも関係しています。一般的な感覚では、未来、現在、過去は一直線上にあって、未来は目の前に過去は後ろになります。行事も終えれば、過去であり後ろになりますから、それを考えることを振り返り、と呼ぶわけです。しかしキリスト教は過去を必ずしも後ろにあるものとは考えません。むしろ目の前にあるものと捉えます。ですから生きるということは、過去を見つめながら前に進むことでもあります。自分が進む方向に過去が見えるとしたら、過去の出来事や自分が取り組んだことが、今そしてこれからどのように取り組んだらいいか、何をすればいいのかを考え判断する力になっていくわけです。あらゆる体験が生きたものとしてその人に働きかけます。過去見つめることによって進路も拓かれていきます。

独りになって考えることから成長する
 それでは行事を終えた後に何もしていないのかというとそうではありません。敬和学園らしい形で行っています。一つは毎朝の全校礼拝です。フェスティバル明けの全校礼拝では、フェスティバル担当の教師が次のように問いかけつつ話をしました。「・・・連合活動を通して、名前の知っている生徒の数はどのくらい増えたか。大勢の人に説明をする際に、うまくいかなかったのはなぜか。自分をどのくらい見つめなおすことができたのか・・・」。大切なことはまず独りで考えるということです。毎朝の全校礼拝は全校生徒と教職員が一堂に会しつつも、その中で独りになって考える場です。全校礼拝ではしばらくの間それぞれの教師がフェスティバルとその後のあり方を意識しながら話すことになるでしょう。それを独りで受けとめることによって、まさにフェスティバルはたんに終わったもの、過去のものではなくなります 。
 お尋ねのことは今年の秋に各地で開きます敬和の会のテーマである「スロー・エデュケーション(じっくり取り組む教育)」にもかかわります。ほとんどの学校がファースト・エデュケーション(すぐに結果を数字等で求める教育)」で子どもたちを追い込んでいます。その中にあって敬和学園はそうではない教育をこれからも続けたいと考えています。お答えになったでしょうか。的外れであればご容赦願います。