月刊敬和新聞

2010年3月号より「『ブーたれ顔』からの解放 -「千と千尋の神隠し」から見えてくるもの-」

小西二巳夫(校長)

千と千尋の神隠し
 しばらく前のことですが、一人の生徒が入学礼拝で私と握手をする表情と3年後の卒業礼拝で握手をする表情の違いをオーバーラップさせたものだけを次々に見せる学校紹介ビデオを作りました。入学礼拝の際の表情は、高校生活への不安も当然あるでしょうが、それだけではない陰や暗さに覆われています。その何ともいえない表情を俗的に言うなれば「ブーたれ顔」です。そこにいるのは「不本意なものを内側に溜め込み、それを自分で消化できないでいる15歳」です。
 入学礼拝の際の表情に通じるのがアニメ映画「千と千尋の神隠し」の主人公のそれです。映画は郊外に買った新しい家に引っ越すために、車に乗って移動している場面から始まります。主人公の少女千尋は長いドライブのせいか、後部座席に寝転んでいます。彼女の表情は新しい生活への期待や喜びより、転校することの不安もあってか、ブーたれ顔に終始しています。 千尋一家は道を間違えたために別世界に入ってしまいます。話は千尋が命を落としそうになったり、豚に変えられてしまった両親を助けるために湯婆々という魔女の湯屋で働く、と息つく暇なく展開していきます。そして、悪戦苦闘の末ようやく元の世界に戻ることになります。

クロノスとカイロス
 千尋は別世界で過ごした時間を2泊3日と自覚するのですが、両親は1、2時間過ごしただけと感じています。この違いから、千尋が別世界で過ごした時間は1秒1分という長さで計れる時間(クロノス)ではないことがわかります。それはその人にとってかけがえのない時間、特別な時間とも言えるものです。そのような時間をカイロスと言います。 千尋の2泊3日はとにかく忙しいのです。生きるために目の前の問題に必死に取り組みます。難を逃れるために、あるいは誰かを助けるために走り回ります。そのために声は大きくなり、たくさんの言葉をさまざまな相手と交わさざるを得なくなります。笑ったり泣いたりの繰り返しがいつの間にか素直な表情を作り出していきます。そうした別世界での生活を通して千尋が内面から大きく変わったことがあります。それは、何事も自分中心に考え行動していた彼女が、自分以外の存在のために必死に考えたり行動するようになったことです。千尋は別世界での出会いと体験によって人間的成長をしていくのです。千尋は別世界の2泊3日によってブーたれ顔から解放されていったのです。

敬和学園の3年の意味
 敬和学園の3年間はカイロス(特別な時間)です。敬和学園には「ゆっくりした時間が流れている」と言われることがありますが、その3年は決して楽ではありません。ある意味大変忙しいのです。たくさんのことが求められます。敬神愛人というキリスト教の精神や人間理解を持つことが求められます。行事・集会を通して競争ではなく共に生きること、作り上げることが求められます。学びにおいてただ点数を上げるのではなく深く考えることが求められます。 個人的な学校見学の際に、多くの方がすれ違う生徒の表情やあいさつの言葉を目の当たりにして「いきいきとしていますね。自然な輝きがありますね」と言われます。それは敬和生活を通して子どもたちがブーたれ顔から解放されていることの証明です。

確信を持って言えること
 そうした子どもたちの成長や変化を喜び実感しつつも、なお大人や親は子どものことが心配です。時として「敬和学園で3年間過ごせるのは幸せだけれど、敬和は特別であって社会は違う。そうした社会ではたしてやっていけるのでしょうか。心配です」との声を聞くことがあります。 そこで気づきたいのは、千尋の別世界での2泊3日のもつ意味です。千尋の別の世界での体験と成長は、千尋が現実の世界に戻った時のための準備であったということです。それはあくまでその後の人生をいきいき生き抜くためのかけがえのない時間と場所であったのです。映画は2泊3日で得た出会いと体験を力として、千尋が新しい環境でいきいきと生きていくであろうことを想像させてくれます。新しく出会う人たちと共に生きるであろうことを確信させてくれます。それは敬和生活3年を体験した一人ひとりにも確かなこととして言えるのです。40回生は敬和学園での特別な時間を通して、自分の人生を生きていくのに必要な学力、社会を生きる力であるリテラシィー(使いこなし)を間違いなく身につけたのです。