月刊敬和新聞

2010年9月号より「『発想飛び』に生きる -2010年度後期始業礼拝の話から-」

小西二巳夫(校長)

作家 万城目学
 私の好きな作家の一人に万城目(まきめ)学さんがいます。万城目さんが作家になるきっかけは風です。大学生の時に自転車で河原を走っていたら、さわやかな風が吹いてきて、「ああ、気持ちいい」と感じた瞬間、「そうだ、この気持ちを文字に書き残さなくてはならない」と思ったというのです。万城目さんはその体験が自分を作家にしたと考えていましたが、あるとき本当のきっかけは別にあったことに気づきます。高校2年生の現代文の授業で宿題が出されます。「発想飛び」といわれる話を書くというものでした。「風が吹いたら桶屋が儲かる」ということわざがありますが、自分独自の面白い発想で話を展開させるわけです。翌日授業の始まる前に生徒同士で書いたものの見せ合いが行われます。自分の作品に自信があった万城目さんですが、隣の生徒のものを読んだとたんしまったと思います。その作品は生物の授業で習ったことを扱っていて、内容が自分のものとほとんど同じだったからです。万城目さんは「これではいけない」と何かに突き動かされるように、せっかく書いたものを消しゴムで消し、10分の休み時間の中で別の話を書き終えるのです。

目からうろこが・・・
 一週間後、万城目さんの作品がクラスの最優秀賞に選ばれました。先生は彼の文章を面白いと評価してくれたのです。万城目さんはそれまで自分が人にほめられるような文章を書く人間とはまったく縁がないと思っていました。ところが、どう見ても行儀の悪い文章が認められたとき「ああ、こういうのでもいいんだ」と知ったのです。今日の聖書のパウロと同じように「目からうろこ」が落ちる思いをするのです。 万城目さんは今思うわけです。「もしもあのとき隣の席の子が自分に書いたものを見せてくれていなかったら、自分は宿題の書き直しをすることはなかっただろう。そして、もしその体験がなかったなら、数年後自転車で風に吹かれたとき、自分は果たして小説を書こうと思い立っただろうか。もし、あのとき、文章は素直に書きたいように書いたらいいんだ、と教えてもらわなかったら、今も自分は文章というものを誤解したままだった」。10数年前に一人の先生が一人の生徒の土壌に蒔いた種が、数年後自転車に乗って風に吹かれたとき、突如発芽することになり、それからまた年月が経って小説を書くという形で実を結んだのです。

宿題の持つ意味
 万城目さんの今があるのは、現代文の宿題の作品が休み時間の10分間に書き直した汚い字のものであっても、とにかく提出したからです。宿題はさせられる勉強の代表のようであまり好かれません。宿題が大好きという人はまずいないでしょう。「宿題は誰のためにするものですか」と聴かれたら、その質問の意図をわかって「ハイ、自分のためです」と多くの人は答えますが、心底そう思っている人はほとんどないでしょう。けれど、万城目さんの話から、宿題はやはりわたしのためにするものだということがわかります。まさか、その宿題がその後の人生を決めるものになるとは、その時はわかりません。けれど一つの営みが自分の人生に大きく関わることがあるのです。

御心は必ず働く
 キリスト教は、それを神様の御心が働いたと考えます。偶然と思えることの中に神様の意志が働くことがあるのです。そのように考えると、一つの宿題をきちんとすることがいかに意味あることかがわかってきます。それは宿題だけのことにとどまりません。「服装をきちんとしましょう。髪の毛の色に気をつけましょう」という身だしなみにきちんと取り組むのも自分のためなのです。そこに自分の将来が関わるような何かがあるかもしれないのです。そうした発想を持って学校生活をするのがいわば敬和流です。そういう生き方を自覚する一人ひとりに神様の御心が働かないはずはないのです。必ずその人に一番ふさわしい道が用意され拓かれていくのです。それが敬和学園の発想飛びです。敬和学園の発想飛びを大切にすることのよって、今日から始まる2010年度後期の学校生活は間違いなく充実したもの、楽しいものになるはずです。