月刊敬和新聞

2011年2月号より「人は愛されていることが実感できた時 自分の人生を生き始める」

小西二巳夫(校長)

グッド・ウィル・ハンティング
 2月に入り3年生は自宅学習期間に入りました。全校礼拝の話は当然1,2年生に向けてのものになります。7日月曜日、この日の全校礼拝は映画「グッド・ウィル・ハンティング」から始めました。主人公ウィルはマサチューセッツ工科大学の清掃のアルバイトをしていました。ある日、彼は大学の掲示板に貼られた数学の難解な証明問題をいとも簡単に解いて出題者を驚かせます。そうした類まれな能力を持っているにもかかわらず、彼はその才能や自分自身を大事にしているようには見えませんでした。周囲の人の忠告も聞きません。ウィルは小さいときに両親がいなくなり、あちこち預けられます。さらに里親から虐待を受けるという不幸な体験をしてきました。家族や周囲の人から愛されるとの体験を持たず、心を開けなかった彼にとって、周囲の人の願いや言葉が心に響くことはなかったのです。そのウィルに対して、自分も同じような体験を持つカウンセラーのショーンは、自分の人生を他人に語ることの大切さと、人生を投げやりではなく真正面から捉えることの意味を教えます。

ゆるされている 受け入れられている
 カウンセリングの最終日、ショーンはウィルに言いました。「お前は悪くない」。「お前は悪くない」と繰り返しながら迫ってくるショーンに、ウィルは突然「ごめんなさい、僕をゆるして」と泣きながら崩れ落ちます。「お前は悪くない」によって、幼い時から余計な人間として、不必要な存在として迷惑がられながら生きてこなければならなかった、その自分が初めて生きていていいということ、ゆるされていることがわかったのです。 人がそれまでとは違う生き方ができるようになるのは、自分がゆるされていること、受け入れられていることが実感できた時です。 敬和学園で学ぶことの大切な目的がそこにあります。敬和生活を通して、一人ひとりに実感してもらいたいのは「自分は神様にゆるされている」ということです。 たとえ状況がどうであっても「受け入れられている。愛されている」ということです。人は自分が受け入れられ愛されていることがわかったとき素直になれます。素直になると、自分がしなければならないことが見えてきます。聴くべき言葉が響いてきます。本当の意味で学ぶ人になります。同時に自分の人生を真正面から生きたくなります。敬和学園の3年間は、そして一日一日の授業は、一つ一つの行事や集会は、そのためにあるのです…。という話を全校礼拝でしました。

卒業文集
 その日の午前中のことです。3年生の担任から「これはゲラ刷りです。ぜひ読んでください」の言葉と一緒にクラスごとに綴じられた卒業文集の原稿を預けられました。製本される前の卒業文集をまとめて読むのはほとんど初めての体験です。製本前ですので字体やフォントが違っていて、そこにそれぞれの主張や思いを感じます。さっそくあるクラスから読み始めました。2クラス目の半ばに差し掛かった時のことです。急にしんどくなりました。「もうアカン しんどい」。別に体調が悪いわけではありません。重いものをどんと飲み込んだような気持ちになり、それ以上続けて読むことができないのです。原稿をテーブルにおいて、「ふうっ」と息を吐きました。しばらくして、このしんどさがどこからきているかわかってきました。

礼拝の話に対する3年生の応答
 卒業文集の原稿に共通しているのは、自分自身の内面に踏み込んで書いていることです。文集ですから多くの人に読まれることを前提としています。それにもかかわらず、「そこまで書けるか?さしさわりない?」と思えることを自分の言葉や表現で実に素直に書いているのです。読んでいる途中で、たまらなくしんどくなったのは、そうしたことから出てくる圧倒的なエネルギーをどんと受けてしまったからです。卒業文集は、その日の全校礼拝で1,2年生に向けての話に対する、3年生の応答でもあったのです。他人の思惑を超えて、素直に自分のことが書けるのは、自分の人生を自分で生きる自信が根底に育っているからです。そして、それはまさに「ゆるされている、受け入れられている」ことを実感できる人だけがもてる自信であり、自分と周囲を見つめられる視線です。卒業文集は、変わり行く時に、動き出す時に生み出されるエネルギーのすごさと人生を真正面から生きようとする決意に溢れていました。この日の出来事を通して、卒業していく41回生のそれぞれの進路が神様によって導かれ、拓かれていくことをあらためて確信しました。