月刊敬和新聞

2011年8月号より「神様は『たまたま』を通して『わざわざ』招いて下さる方です」

小西二巳夫(校長)

エミタイのパンを時々食べに行きます
 「敬和学園の前にあるエミタイの川島さんのところに時々パンを食べに行っています」。ある研修会の席で、講師で来られた柏崎市にある新潟産業大学のA先生が突然そう言われました。思わず「どういうご関係ですか」と聞きました。エミタイのおじさんは国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊員としてアフリカに行っておられたことは、敬和学園でもよく知られていますが、その青年海外協力隊つながりであることがわかりました。「先生はどちらに行かれていましたか」という私の質問にA先生は「コスタリカです」と答えられました。「え、コスタリカ、軍隊をもたない国で有名な、あのコスタリカですか。私一回は行ってみたいと思っているんです」と思わずたたみかけてしまいました。A先生は体育の指導員として大学で教えられていたとのことです。「ところで、うちの娘ですが、実は今年の冬から青年海外協力の農業指導でネパールに行くことが決まっているんです」とついつい聞かれてもいない家族の話までしてしまいました。

軍隊のない国コスタリカ
 しばらくしてのことですが、スポーツジムで時々会話を交わす機会のある卒業生のBさんと久しぶりに会いました。「先生、私英語のインターンシップとしてC中学に行くことになりました」が開口一番の言葉でした。C中学の校長先生から電話で、子どもたちの英語への関心を強めるためのインターンシップを探していて、私から敬和学園大学にお願いできないかとの打診がありました。早速大学に連絡をして、その結果BさんがC中学に行ってくれることになったわけです。「君が行ってくれるんか。それは安心やな。海外でボランティア活動体験をいっぱいしている君が、中学でインターンシップしたら、子どもも英語に興味持つやろうなあ。ありがとう」と答えました。そのあと近況について言葉を交わしている最中に思わぬ言葉を聞くことになりました。「先生、私11月にコスタリカに行くことになりました」。「えっ、コスタリカ?。軍隊のない国コスタリカか」とどこかで言ったことがあるような言葉を思わず発してしまいました。日常生活でめったに聞くことのない国の名前を、連続して聞くことになったわけです。「あのなあ、エミタイのおじさんの知り合いで、若いときにコスタリカに行っていた人とこの間あったばかりやで、今度紹介するわ」。

「たまたま」は神さまの計らい
  海外青年協力隊とコスタリカそしてインターンシップにまつわる会話、つながりと人間関係は、一般的には「偶然ですね」で終わります。しかしそうした偶然の出来事を、キリスト教は「たまたま」では終わらせません。「偶然」「たまたま」を軽く扱いません。そこに、私にはわからない神様の導きや計らいがあったと考えます。そして、キリスト教の学校である敬和学園もそのようなたまたまの出来事を重く受けとめます。たとえば「その人が敬和学園をたまたま知ることになった、そのたまたま」を、「その人がたまたまオープンスクールに来ることになった、そのたまたま」をそこに何よりもまず神様の導きがあった、神様がその人を敬和学園に導いて下さったと受けとめます。

「たまたま」を通し「わざわざ」招かれているあなた
 まして、その人が敬和学園に入学し生徒になるとしたら、そこに人間の思いを超えた神様の意思が働いていると考えるのです。敬和学園が一人ひとりを、その存在を大切に考える根拠がそこにあります。敬和学園を知り、入りたいと考えるきっかけになったことが、必ずしもうれしい出来事を通してとは限りません。むしろ思い出したくない出来事や体験による場合も少なくないでしょう。敬和学園は、その人にとって今はマイナスにしか思えない出来事や体験をもっている存在を真正面から受けとめてきました。さらに神様が「たまたま」を通して「わざわざ」招いて下さっている、そしてつながっている一人ひとりと共に歩んでいきたい、成長したいと強く考えています。