月刊敬和新聞

2012年8月号より「私が山登りできるのは  トレッキングポールがあるからです」

小西二巳夫(校長)

新潟百名山
 3年前の5月に急に思い立って五泉の菅名岳(900m)に登りました。これをきっかけに山登りに関心を持ち始めました。すると登ることのできる山が身近にたくさんあることがわかってきました。そこで買ったのが「新潟百名山」です。この本をガイドに時間がとれる時に、下越、県北地域の500m~1,000mの山を選んで登っています。
  5、600mというと、ふもとから見るだけなら大した高さではありません。しかし登ってみてわかるのは、低い山であっても、登り口の勾配のきつさは高い山と何ら変わらない、侮れないことです。急な階段状の道を登っていると20分もしないうちに、口はハァーハァー言い始めます。全身から汗が噴き出し、息も絶え絶えになっていきます。水やスポートドリンクを何度も飲みます。これは立ち止るための自分に対する言い訳の意味合いが強いのです。毎回そうなのですが、登り始めてしばらくして湧きあがってくるのは、なぜ自分は今山に登ろうとしているのだろうか、なぜしんどいことをしているのだろうかとの思いです。ネガティブな気分でいっぱいになります。それでも登るのはある道具(支え)があるからです。

下りは楽しい
 登りがあれば必ず下りがあります。下ることは登ることと違って、体と足は前にどんどん出ていきます。そういう意味のしんどさからは解放されます。だからといって下りは楽ではありません。急勾配は怖いのです。けつまずいたり、滑ったりしやすく、ねんざやけがをしがちです。足には登り以上に大きな負担がかかります。腰やひざが痛くなるのは、年齢的なものもありますが、下っている時です。それでも山を下るのは、どこか気分的な楽さがあって楽しいのです。それはゴール地点までの距離とかかる時間がある程度わかるからです。終わりがわかると少々辛くても耐えることができます。それに加えて一つの道具(支え)があるからです。

トレッキングポール
 私の山登りに欠かせない道具(支え)は2本のトレッキングポールです。わかりやすく言えば杖です。形はスキーの伸縮性ストックとほぼ同じです。このポールがあるのとないのとではしんどさの度合いがまったく違います。トレッキングポールがなければ、山に登らないだろうとさえ思います。大きな段差や急斜面を登る時には下半身に大きな負担がかかりますが、ポールを使うと体が支えられ、そして押し上げられるようになります。ポールを動かすために腕と上半身を使いますので、体の中から力が引き出されるような感覚になります。下半身だけでなく、全身運動になります。背負っている荷物の重さも気にならなくなります。そして、ポールが力を発揮するのは下りです。下りで起きやすいけがなどのアクシデントを防ぎ、腰や膝への負担もはるかに減らしてくれます。躓きかけても、ポールを地面に突くこと耐えることができます。二足歩行の人間がこのポールを使うことは四足歩行をするのと同じですから、あらゆる場面でバランスがとれて安定するわけです。

トレッキングポールとして働くイエス様
  先日、下越の高坪山を登っている最中にふっと気づいたことがあります。敬和学園には一人ひとりの学校生活を支える様々なトレッキングポールがあるのです。ここには存在を支え高みへと導いていくための、そして内側からエネルギーを引き出すための、その人が本来持っている力や能力を引き出すための、場面や出会いがたくさんあります。存在を支え、しんどさを分かち合い、そして力を引き出し押し上げる、そうしたさまざまな人と人間関係があり学習や行事の取り組みを持つ学校になっています。そして敬和学園の最も大きな支えはイエス・キリストの神様です。そうそう楽ではない高校生活がそれでも楽しく思えるのは、そこに見えない神様が生きて働き、支えて下さっているからです。イエス様が必要な時に必要な形でトレッキングポールとなって支えて下さることを信じるならば、自分中心になって自分を苦しめることから解放され、しんどさそのものもまた楽しめることができるのです。その大切なことを子どもたちに伝える言葉を持てる人間になるためにも、私自身がイエス様に支えられた生き方をしていかなければならないと、山を上り下りしながらあらためて思わされたのです。