月刊敬和新聞

2013年9月号より「目指すは小さな声と音が響く学校」

小西二巳夫(校長)

ハウンドドッグ「フォルテシモ」
 「フォルテシモ」という曲があります。ハウンドドッグという1980年代から90年代に活動したロックバンドの代表曲です。「…言葉にならない 胸の熱いたぎり…。」 ボーカルの大友康平のしゃがれた声で叫ぶように歌うこの曲に元気をもらったという人も多くいます。曲のタイトル「フォルテシモ」は音楽用語からとっています。強弱を表す音楽記号は一般的に六段階あります。きわめて弱く演奏するピアニシモから始まってピアノ、メゾピアノ、メゾフォルテ、フォルテと続き、フォルテシモはきわめて強くという記号です。「フォルテシモ」が叫ぶように大きな声で歌われ演奏されるのは道理です。

大きな声が強制された部活
 私は高校時代ハンドボール部に入っていました。毎日の練習は相当ハードでしたが、卒業したある先輩がコーチに来たときには練習がさらにきつくなり、容赦のない指導を受けました。へとへとになる練習の仕上げは、グラウンドの端に立って、反対側に立った先輩に向かって、自分の名前と「ありがとうございました」と言うことでした。その際に声が小さいと、グラウンドを一周走ってからもう一度させられました。声が小さいのは元気がない、やる気がないと判断されたのです。大きな声を出せない者は試合に出してもらえませんでした。部活では声はできるだけ大きく強く出すことが強制されました。

「ピアニシモ」の語源はピアノ
 フォルテシモの反対のピアニシモ(きわめて弱く)の語源はピアノだそうです。ピアノは大きな音が出ます。鍵盤を強くたたけば強い音が出ます。けれどピアニシモからピアノという楽器の出発点と大切にするべき音が何かがわかります。ピアノに限らずその演奏が心に響いてくるのは、ただ音が大きく強いからではなく、それらの対極にある小さく弱い音がいかに大切にされているかにかかっているのです。小さな音を響かせることによって、聴衆の内側にある五感を呼び覚まし感動を与えることができるのです。

小さな声と音が響く学校に
 学校という場所は当たり前のように大きな声が飛び交います。先生は授業で学習内容を理解してもらいたいとの思いから、ついつい大きな声で喋ろうとします。集会等で静かにさせるために大きな声で威圧します。時には声の大小が教師の資質を問うことになります。学校には子どもたちの声も歓声や嬌声となって響いています。教師の問いかけに答える声が小さいと注意をされます。大きな声を出せることイコール明るく元気がある、やる気があると考えられています。それは一理あります。人の話を聴いて、その言葉を受けとめて、自分の頭の中で考え始めるのは、ふつうの大きさの声で話される時です。大きな声を出されると、反射的に静かになりますが、同時に頭の中も心もシャットアウトしてしまいます。私は週の初めの全校礼拝で話をします。10年前は話している最中に声が掠れることがしばしばありました。そこで事前にそっと口にキャンディーを含ませたりしました。最近そうした心配はまずありません。私の声の大きさは年ごとに小さくなっています。それは年齢的なものにもよるのですが、確かなことは大きな声を出す必要がなくなっているということです。それにもかかわらず、一人ひとりに声が届いている、一人ひとりの心に響いていると実感できるような全校礼拝になっています。全校礼拝の状況から気づかされるのは、本当に伝えたいことを伝えるためには、そして自分で考えてもらうためには、さらに人間的に成長してもらうためには、ふつうの声や小さな音が響くような環境にしていかなければならないことです。人の痛みや悲しみは小さな声で発せられます。自分が何を考えているかを自らに問う時に答えてくれる声は決して大きなものではないでしょう。学校や社会はフォルテシモであることを肯定しピアニシモを否定しがちです。けれど気づかされるのはピアニシモの存在の大きさと大切さです。人間教育を中心においた敬和学園がこれから目指すのは、大きな声が支配をするのではなく、小さな声や弱い音が響くような学校になることです。