月刊敬和新聞

2014年7月号より「敬和学園は時にはこだわりを捨てることにこだわらない学校でありたいと考えています」

小西二巳夫(校長)

私はこだわりが強い?
 自分ではそうは思ったことがありませんが、私は周りの人からこだわりが強いと言われることがあります。尋ねられたことに素直に答えた時に返ってくる言葉がそうです。たとえば新潟に来て13年になりますが、コーヒー豆は自家焙煎をしている札幌のお店からずっと送ってもらっていると言うと、「こだわっていますね」となります。服装について、持っているスーツはチャコールグレーと黒だけです。すべて、三つボタンの上二つ掛けで、袖は本切羽にし、ステッチは8ミリ内側に入れ、フックベントであり、パンツはノータックで、シャツはボタンダウンでネクタイはレジメンタルの剣先8㌢…と話しますと、こだわりが強いですね、となります。この年齢ですから自分自身のことについての決め事は確かに多いと思います。けれど、それはあくまで自分だけのことであって、他の人に押し付けることはありません。ですから「こだわっていますね」と言われると、どんな場合でも必ず「別にこだわっていません」と答えてしまいます。反射的にそう答えるのは「こだわる」という言葉の持つ本質に関係しているのだろうと思います。

こだわりのメニュー?
 こだわり(拘り)はもともと「どうでもいい問題を必要以上に気にする」とのニュアンスを持つ言葉です。ですからあまりいい意味では使われてきませんでした。仏教ではこだわりを執着(しゅうじゃく)と呼び、人間の一切の悩み苦しみの原因は執着だと考えます。そして執着から完全に心が自由になるためには、それを捨てなさいと教えます。しかし最近は「こだわりのメニュー」のように、いい意味での使い方をすることが多くなってきました。ある年代から下の人は「独自の研究・試行錯誤を重ね工夫した」といった肯定的なニュアンスを持つ言葉として受けとめるようです。これはそれぞれの生き方と価値観が同じではなく多様になってきたことを表しているようで歓迎するべきことなのかも知れません。そうした現実から類語・同義語にも否定と肯定が入り混じります。たとえば理想や美意識などに対するこだわり、というと、偏執性、~だけは譲れない、~への固執、~以外眼中にない、などの否定的な受けとめ方がある一方で、思いの深さ、関心を持ち続ける、おもねらない生き方などという肯定的な捉え方があります。とすれば、私もこだわると言われることにこだわりを捨てると、もっと自由に生きられるわけです。

キリスト教のこだわり
 聖書にもこだわりの強い人たちが登場します。その一人に新約聖書に登場するパウロがいます。パウロがこだわったのはイエス・キリストです。当初イエスはパウロにとって受け入れがたい存在でした。社会の秩序を壊し人々を惑わす赦しがたい人物でしかありませんでした。ところが一つの出会いをきっかけに、すべての人の救い(福音)はイエス・キリストにあると考えるようになりました。その気持ちをストレートに表したのが次の言葉です。「…福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(コリント第19章23節)。パウロはまさにこだわりを捨てた、こだわることから解放された人だったと言えます。

敬和学園のこだわり
 キリスト教の学校である敬和学園は周りから見ればこだわりの強い学校と見られているはずです。確かに一日の学校生活そのものにこだわりがあります。まず何があっても必ず行う朝の全校礼拝がそうですし、授業もたくさんのことをただ覚えるのではなく、どれだけ自分で考えるかに重点を置いています。ですから、こだわっていると言われた時にあえて否定することはありません。むしろ「そうです。こだわっています」と答えたくなります。確かに四七年間教育にこだわってきました。ただしそのこだわりは学校の価値観に子どもたちを従わせることでもなく、はめ込むことでもありませんでした。子どもたちの存在を大切にするための、そして成長を第一に考えることから生じるこだわりです。そのためには自分たちのこれまでの教育をあらため、時には捨てることさえ厭(いと)わないできました。パウロ的に表現するなら「子どもたちの存在を大切にするためなら、そして人間として成長してもらうためなら、時には敬和学園は何でもする」となるでしょうか。その意味で子どもたちのために、これからも自分たちの「こだわりを捨てることにこだわらない」学校であり続けたいと考えています。