月刊敬和新聞

2014年8月号より「『ぼちぼちいこう』から始めて『ぼっちぼっちでいこう』になる学校」

小西二巳夫(校長)

ぼっちぼっちやったらええ
 30年前の6月下旬ことです。私はその4月から北海道札幌市にある教会の牧師をしていました。新しい教会を作ることになって、私が赴任したのです。日曜日の礼拝に来る人を増やすことが周りから期待されました。けれど経験不足などから何をどうしたらいいのか、よくわかりませんでした。その私を気遣ってか、ある先輩の牧師が「まあ、一緒に御飯でも食べましょう」と誘ってくれました。食事をしながら先輩牧師は自分の失敗談を話してくれました。それは深刻なものから笑えそうなものまでいろいろでした。先輩牧師は失敗談を語ることによって私の心を軽くしようとしてくれたのです。
  そして、出された料理の一皿にのっている真っ白なものを指さして言いました。「これはボッチや。ミズダコの頭の皮をむいたものや。北海道ではこれをみんなボッチと呼んでいるんや。小西さん、肩の力抜いてボッチボッチ(ぼちぼち)やったらええんや」私は思わず泣きそうになりました。

「ぼっち」
 最近「ぼっち」という言葉を聞く機会がよくあります。タコの頭のことではありません。この場合の「ぼっち」について辞書には次のように書かれています。「ぼっちとは「一人ぼっち」の略。本来は一人のお坊さんがどこの宗派にも属さないこと、または離脱した様子を表す。現在では一人で寂しい人のことを「一人ぼっち」と呼ぶ」。「ぼっち」は完全にマイナスの言葉です。一人でいることが悪いことのように思われがちです。恥ずかしい、怖いとさえ思われているのです。ですから、ボッチにならないための方法があれこれ考えられます。そうならないためのコミュニケーションの取り方があるところに書かれていました。「『部活入る~?』とか、『中学どんな感じだった~?』とか、『桜きれいだねー。』とか。大事なのはどんなに些細なことでもいいので、どんどん話かけることです。」

全校礼拝を解説すると
 敬和学園は毎朝チャペルで全校礼拝を行います。全校礼拝を順を追って解説すると次のようになります。文化委員長の「もうすぐ礼拝が始まります。立っている人は自分の席について下さい」と呼びかけに、喧騒状態だったチャペルに落ち着きが生まれ静かになっていきます。そして宗教主任の野間先生が入口のドアを閉めて合図を送ると、文化委員長が司会者の隣に立ちます。これを見てチャペル全体に静けさが降りてきます。そして沈黙のシーンという音が聴こえたところで、司会者の「今から礼拝を始めます。目を閉じて黙祷して下さい」によって礼拝が始まります。全校礼拝は一人になることが求められます。一人になって聖書を読み、そこで語られる言葉を一人になって聴くためです。それは一人になってこそ考えることができるからです。

呼応する子どもたち
 ケータイ等の端末機などによっても誰かとつながっていないと不安なおとなと子どもが急激に増えています。その中、敬和学園の求めにしっかりと応えてくれる人たちが育っていることをあらためて知る言葉に出会いました。2年生のAさんが寮の礼拝で次のような話をしたのです。「…私は世間の言う「ぼっち」の中の一人です。移動教室は99%一人で行きますし、休み時間はトイレに行くか机に座っているかしています。…私のことを「友だちがいないの」と心配してくれる人がいるかもしれません。しかし私には素敵な友だちがたくさんいます。私は敬和に入って初めて「ぼっち」を経験しました。中学の頃は何においても誰かといつも一緒でした。教室移動、トイレ、休み時間を常に5~6人のグループで過ごしていました。今考えると「ぼっち」になることができなかった、しんどかったなと思います。敬和での「ぼっち」は孤立や仲間のいないことではなく、自分の好きなように行動し、一人の世界も楽しみ、時には友だちと賑やかに過ごすことです。今、学校生活や寮生活で一人じゃ不安だ、一人で行動するのが恥ずかしい、寂しいと思っている方はぜひ敬和で「ぼっち」を経験して下さい。一人でいることで見える物や感じる物も変わってきます。私は卒業された44回生の素敵な友だちをたくさん持つ先輩から「ぼっち」生活の素敵さを教えられました。私も自分の卒業までにはその先輩に負けない気づきや学びを「ぼっち」生活からもしていきたいと思います。
 敬和学園の3年間で「ぼっちぼっち行こう」から始めて、やがて「ぼっちぼっちで行こう」との生き方ができるようになっていけるのです。