毎日の礼拝

校長のお話

2015/07/21

「ふるえる」(マタイによる福音書6章7~14節)

つい最近のことですが「ふるえる」という言葉に出会う機会が2度ありました。

1度目は、かつて大変お世話になった先輩牧師からです。

80歳を超えているその方と久しぶりにお会いしました。

あいさつを交わす中で私は尋ねました。

「囲碁はされていますか」。

すると先生は残念そうな顔をしながら言われました。

「このところ、手が震えるようになった。石を掴むのが億劫になってね。あまりやっていません」。

囲碁将棋の囲碁です。

囲碁の歴史は紀元前2400年頃の中国にまでさかのぼると言われています。

日本には紀元500年ごろに入ってきました。

囲碁は二人のプレイヤーが碁石と呼ばれる白黒の石を碁盤の目の上に並べていって、自分の色の石で碁盤の領域をより広く取った方が勝つというゲームです。

へえーと思うのは、囲碁はマインドスポーツと呼ばれる競技の一つで、オリンピック競技として採用されるのを目指しているとのことです。

そういえば2010年にあったアジア大会では正式種目でした。

私はこういうゲームが苦手で自分には関係ないと思っていましたが、囲碁の用語が日常生活でたくさん使われていることを知ってびっくりしたことがあります。

たとえば試合でよく使われる序盤・中盤・終盤がそうです。

敬和生活でいうと48回生は序盤ですし、47回生は中盤、そして46回生はまさに終盤に入ろうとしています。

一部分を犠牲にすることで全体を守る「捨石」、手段を講じる意味の「先手を打つ」、対応が遅かったという「後手に回る」、話の中でよく使う「結局」もあります。

決定的に違う「段違い」という言葉も囲碁の用語です。

その他にも、相手に敬意を払う「一目を置く」、失敗したという意味の「下手を打つ」、

ダメでした。ダメダメの「駄目」もそうです。

野球などで使う「駄目押し」点や八百長試合の「八百長」もそうで、生きるか死ぬかの「死活問題」や計画を立てるの「目算」もあります。

さらに将来のためにあらかじめ用意をしておく「布石」も囲碁の用語です。

ざっと考えただけでも、これだけの用語が日常生活で使われるのは、それだけ囲碁が考えおもしろいゲームであるからでしょう。

その囲碁を手が震えるようになってできないのは、実に残念だろうと思いました。

 

 

2度目の「ふるえる」は若い人から聞きました。

一昨日政府与党はごり押しをするかのように安保関連法案を衆議院で通過させました。このあり方に対して全国で集会やデモで反対の意思を表す人たちがどんどん増えていっています。

若い人たちの間にもその動きが広がっています。

6月のことです。

札幌に住む高塚愛鳥(まお)さんという19歳のフリーターの女性が呼びかけた安保関連法案に反対するデモが行われました。

高塚さんは音楽とおしゃれが好きな女性でこれまで政治にはほとんど関心がありませんでした。

もともと人一倍怖がりだったそうです。

ですから幼稚園児の時に戦争を扱った「火垂るの墓」を見て、夜眠れずベッドの中で震えていました。

高校の修学旅行で訪れた広島では、原爆資料館の展示をまともに見ることができませんでした。

高校時代はまさにヤンキーそのものの生活だったそうです。

戦争は怖い嫌いと思いながらも、デモなどしても何も変わらないと思っていました。友達と街を歩いていてデモに出くわしても「うるさいなあ」と感じていました。

それでも、もし戦争になったら駆り出されるのは自分たちの世代。

無関心で遊んでばかりでいいのか、と少しずつ考え始めます。

6月になって若い人たちが円山公園でデモすることを知りました。

そこで自分も参加しようと思ったのですが、円山公園が札幌にある円山公園でなく、京都の円山公園だとわかってがっかりします。

すると知り合いの女性から「だったらあなたが自分でやったら」と背中を押されたのです。

そこで、その日のうちに安保関連法案についてインターネットで調べ、友達を誘ってデモを企画して実行したわけです。

その時のデモにつけた名前が「戦争したくなくてふるえる」でした。

戦争は怖いもの、自分は怖いものに出会うと震える、その気持ちを今若い人たちに人気のある歌手西野カナのヒット曲「会いたくてふるえる」という歌詞にかけたわけです。

高塚さんはインターネットのデモのお知らせに「戦争が始まったら自由が奪われる。バカな政治家たちに自由で楽しいあたし達の暮らしを奪われてたまるか」というメッセージを載せました。

「戦争したくなくてふるえる」のデモは日本の各地に広がっています。

このように「ふるえる」にもさまざまな形の「ふるえる」があります。

 

 

先輩牧師は健康を損なって体にふるえの症状が出ました。

高塚愛鳥さんは最初戦争への怖さから、恐ろしくなって心がふるえました。

体のふるえでいうと、寒さのために体がふるえるというのもあります。

体や心がふるえるのでも、怖さや寒さでなく、後悔の気持ちからふるえることや、悔しさから肩がふるえ、心がふるえることがあります。

聖書にも体や心がふるえる話がたくさん出てきます。

恐ろしくなってイエス様を知らないと裏切った弟子のペトロは、恥ずかしさと後悔のために泣いて心をふるわせます。

そして今日のところもふるえる場面です。

この箇所を読んで実に多くの人が心をふるわせてきました。

私たちは世の中を見て、そして自分に起こった出来事によって、失望したり絶望的になったりすることが必ずあります。

自分はもうだめだ、何をしても無駄だ、駄目だと落ち込むことがあります。

その人に対して、イエス様は言われるのです。

「あなた方の父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存じなのだ。だからこう祈りなさい」。

神様は私たちが今を生きるために必要な力や知恵を必ず与えてくださる、いやすでに与えてくださっているのだから、今日という一日を、今という時を一生懸命生きたらそれでいい。

今日の箇所を囲碁の用語と西野カナの「会いたくて会いたくてふるえる」にかけて言うならば、次のようになります。

神様はすべてお見通しです。

つねに先手を打ってくださり後手に回って私たちを守り見ちびてくださる段違いの存在です。

私たちを愛するためにイエス様を捨て石にされました。

だからたとえ下手を打ったとしても絶望せず自分を駄目と思わず、愛されて愛されてふるえる、そういう自分であることに気づきなさい、ということになります。

 

 

そこで私たちに求められるのは、敬和生に求められるのは、この夏休みをどのように生活するのかということです。

何も考えないのは何より駄目でしょう。

まず目算を持つことです。

つまりしっかり計画することです。

たとえば敬和生活序盤の48回生は社会科から平和について考える絶好の機会を与えられているはずです。

中身のある平和新聞を制作してください。

中盤の47回生は自分の将来に先手を打つような取り組みをしてください。

後手に回らないように、結局駄目な夏休みでしたと情けないない言葉を発することがないような一日一日を過ごしてください。

まさに終盤を迎えた46回生はこの夏休みをどれだけ中身の濃いものにするのかどうかが、人生の死活問題になります。

というものの、そうした気持ちを持ち続けること、40日間やり続けるのは難しいでしょう。

だからイエス様は言われたのです。

祈りなさい。

1日1回ぜひ祈ってください。

祈る時間、祈る瞬間を持ってください。

祈る習慣をつけてください。

それによって、今自分がしなければならないことに取り組み続けることができます。それでは8月26日の始業礼拝でお会いしましょう。