のぞみ寮通信

光風館

2015/05/25

光風館通信 第449号(5月20日)

< 誕生日おめでとう! >

 5月10日(日)に4〜5月合同誕生会を開催しました。

 光風館では去年から誕生会を始めました。その月の前後合わせて6名程度で開催していて、誕生者から食べたい料理を聞き、私が作っています。

 今回のリクエストは「ピッツァ」でした。私は大学時代のアルバイトと卒業後の就職を合わせて、4年間ピッツァレストランで働いていたので、ピッツァは私の得意料理です。今回のメニューは“マルゲリータ・照り焼きチキンマヨネーズ・特製カボチャと玉ねぎのクリームソース”の3種類でした。この特製ソースは、このためだけに手間暇掛けて作ったのです。熱を加えたカボチャを裏ごしし、玉ねぎを飴色になるまで炒めます。そこに生クリームを加えて煮込み、この前みんなからもらった誕生日プレゼント“フードプロセッサー”にかけて、舌触りをなめらかにしました。そのソースをピッツァの上にかけて焼き上げました。ひとり当たり一切れずつでしたが、満足してもらえたようで安心しました。

 毎週日曜日に行われるのぞみ寮全体礼拝では、その週に誕生日を迎える寮生をみんなの前で紹介し、賛美歌『うまれる前から』を歌い、寮務教師のメッセージ付きの写真がプレゼントされます。先週日曜日、信田寮長に紹介されてもすぐに出てこない光風生がいました。前に座っていた私は、「あれ?もしかして礼拝に来ていないのか?彼、体調崩していたっけ?」と思い、見渡したらやっと出て来るところでした。彼はいつもの表情ではなく、“何かしでかしてやろう”という表情をしていたのです。前に出るタイミングを見計らっていた彼を見て、私は「みんなの前で何をするのだろうか…。」と、とても不安になりました。しかしその不安は、すぐ爆笑に変わりました。なぜなら、その彼のTシャツには『 I 新潟 』と書かれていたのです。その彼のTシャツを見て、どよめく友愛館…。全体礼拝後、あんなにどよめいたことは、今までなかったのではないだろうか…。彼に聞いたところ、T.S君(2年)から誕生日プレゼントとしてもらったらしいのです。そのTシャツを誇らしげに着て、のぞみ寮生の前に立つその根性とユーモア、あっぱれです!もしかして、彼も“伝説の漢(おとこ)”になるのかもしれません…。これからの活躍、期待しています。(片岡)

 

 

< 賛美歌 > 

 のぞみ寮賛美歌集が新しくなりました。礼拝委員が中心となって新しくしてくれました。また、呼びかけに集まってくれた有志にも感謝したいです。80ページのものを400冊。その労力は大変だったと思いますが、気持ちよく引き受けてくれ、楽しそうに作る君たちの姿に心が温かくさせられました。

 さて、先週の月曜日です。自由先生がお休みの日だったので、東副寮長と私で光風館の礼拝に参加しました。礼拝のお話はK.T君。多分、一年生がこんな早い時期に話をするのは、光風館ぐらいではないでしょうか?どんな話をしてくれるのか、まぁ一番初めのお話だからね…。と楽しみにしつつ、3年生が語るような話にはならないと思っていたんですが、びっくりです。

 初めに「T」という名前の由来が語られ、それだけで終わるのかと思いきや、賛美歌についてまで語るではないですか。これにはびっくりです。びっくりしたのはその内容。『賛美歌を歌う意味。その意味を込めて歌おうという投げかけ。そして、みんながもっと大きな声で歌えたら…』という問いかけ。一年生がここまで語るとは…。そして、全体に問題定義まで投げるとは、思ってもみませんでした。

 私がのぞみ寮に赴任してきた頃です。大望館の担任として寮務教師になりました。その頃の礼拝の賛美歌ですが、今とは全然違います。のぞみ寮賛美歌集を開けるどころか、手元に持ってくることすらしない寮生もいました。大望館でしたが、おそらく光風館も同じ状況に近かったと思います。全体礼拝の賛美歌はほとんど女子の声しか聞こえなかったんじゃないでしょうか。「このままではなるか」と、私は礼拝の時、恥ずかしさを抑えながら一人飛び抜けて大きな声で歌っていたのを思い出します。でも、いつからでしょうか?そうやっているうちに私の声はだんだん目立たなくなっていきました。今では、一人の歌声を聞き取ることは不可能に近くなっています。全員が歌っています。考えてみました。のぞみ寮賛美歌集も全員が毎日開けるので、すぐにボロボロになります。大事に使っていても、毎日全員が手に取っているとボロボロになるのは当たり前です。むしろきれいなままでいるということは、使われていない証拠なのかもしれません。

 だから…私はちょっと悔しかったんです。1年生のK君が光風館の礼拝で、『賛美の意味を込め、大きな声を出そう』と投げかけたことに、まだまだなのかな?とちょっと感じたんです。しかし、時間をおいて改めて考えてみました。K君はまだまだ足りないという意味で、あの話をしてくれたんだろうか?そうじゃないと思います。光風館の礼拝を受けていく中で、もっとこの礼拝を良くしたい。さらなる高みを望んだということなんじゃないかな?そう考えるようになりました。

 10年前、私が赴任した大望館で入ってきたばかりの1年生がそんな声をあげることが出来ただろうか?到底無理だったと思います。今の光風館では出来るんです。そしてその声にしっかりと心の耳を傾けることが出来る。それは、光風館生が礼拝を大事にしていることの証ではないだろうか?今はそんな風に感じています。(澤野)

 

 

< 礼拝のお話 >

K.T(2年)

 みなさんは「自分の長所を知っていますか?」と聞かれて、すぐに思いつきますか?自分は思いつきません。しかし、友達や家族に聞くと、以外にも自分の長所がわかる事もあります。例えば、私は「優しいね。面白いね。頼りがいがある」など様々な長所を言われて、わかりました。私は、これらの長所を伸ばしていきました。優しさは接し方や人への気遣い、それと嫌な雰囲気を出していないなどがあります。私は、これらを踏まえていろいろなところに気を配り、さらにこの長所を伸ばし、究極の優しさを目指します。

 みなさんも自分の長所を考えたり,人から聞いたりして、その長所を生かしましょう。また、自分だけが聞くのでなく他人の長所を見つけて、もしそれが自分に足りないものであったら、それを見習って自分のものにしていきましょう。

 

 

S.M(2年)

 みなさんは「きれいごと」についてどんな事を想像しますか?私は以前、『きれいごとばかりを並べている人は嫌いだ』とある人が言っているのを聞きました。しかし、その事について少し違和感を持ったので、今回はこのテーマにしました。国語辞典で調べてみると“実情にそぐわない、体制ばかりを整えた事柄”とあります。まず初めに、“きれいごと”と“高い理想”は紙一重だと私は思います。実際にこの世の中は、理想論を口にすると『現実は甘くない。それはきれいごとに過ぎない』などとよく耳にします。でも、だからこそその「きれいごと」を現実に近づけようという考え方は、ダメなのでしょうか?もちろん、理想に近づくための方法は、地に足をつけた現実論に基づかなければダメだと思います。でも理想を掲げること自体を否定する根拠は、一体何なのでしょうか?

 現代社会を覗いてみると、この世の中はきれいごとに溢れています。特に、今の政治はその代表格とも言えるでしょう。私たちの日常生活も見てみましょう。例えば、「差別をなくそう。理不尽をなくそう。違いを認めて受け入れよう」など、考えてみると切りがありません。しかし、この“頑張れば出来る理想“を実現しないから、「きれいごと」という名の若干差別的な意味合いを含んだ言葉になってしまったのではないかと、私は考えました。

 今、私が話している内容も受け取り方によっては、ある意味「きれいごと」かもしれません。しかし、これはこのお話の場をより良いものにしようというものであって、それが例え実情にそぐわないものだとしても、私の意見であるという事実に変わりはないのです。以前、校長がおっしゃっていたように『偽善者が偽善を貫き通せば、いつか善になる』のと同じで、きれいごともしっかり実行さえすれば、それがいつか真の意味での“高い理想”になるのではないのでしょうか?みなさんも、これからは高い理想をもって「きれいごと」を読んで字の如く「綺麗事」にしてみませんか?

 

 

W.K (2年)

 みなさんは蟻を知っていますか?蟻は体が小さいながらもみんなで協力して、荷物を運ぶ努力家です。ですが、僕は小さい頃は蟻が苦手でした。その理由は、黒くて小さな物体がたくさんの列を作って、身動きしていたところが苦手だったのです。苦手すぎた僕は蟻を踏んでいました。踏めばもう嫌いな蟻が出てこないと思ったからです。しかし、だんだんかわいそうになってきました。何の罪もない蟻を、ただ気持ち悪いからと言って踏むのは間違っていると思ったからです。そんな蟻ですが、とても根性がある虫です。いくら踏んでも立ち上がる最強の虫です。虫が苦手だからといって殺してはならないのです。虫にも僕ら人間と同じ命が宿っているのだから、無差別に生きているものを殺してはいけないのです。

 みなさんも嫌だからと言って、それを避けて前向きにいくのもいいと思います。しかし、その嫌なことを避け続けるのではなく、向き合うことが大切なんだと思います。