毎日の礼拝

校長のお話

2010/02/01

「ルディ 涙のウイニングラン」(マタイによる福音書25章24~27節)

30年近く前 わたしはフランスに留学していました。
同じクラスにジョンとパメラというアメリカ人の夫婦がいました。
ジョンはアメリカ人にもかかわらず野球がヘタくそでした。 
キャッチボールをしても、ボールをきちんと投げ返せず、地面にたたきつけるくらいのヘタさでした。
彼が好きなスポーツはアメリカンフットボールでした。
ジョンはノートルダムという大学を卒業していました。
ジョンはアメリカの新聞のスポーツ欄を見ては母校が勝ったか負けたかで一喜一憂していました。
ノートルダム大学というのはアメリカ人にとって憧れの大学であり、フットボールの名門校だそうです。

 

そのノートルダム大学に入ってフットボールの選手になるのを夢見た少年が主人公の映画があります。
タイトルは「ルディ 涙のウイニングラン」です。
田舎町に住む少年ルディの夢は、フットボールの選手になって、ノートルダム大学でプレーすることでした。
しかしルディは体が小さく、勉強も得意ではありませんでした。
家も貧しかったのです。
ですから、いくら彼がノートルダム大学に入ってフットボールをやりたいと願っても、誰も本気にしてくれませんでした。
でも彼はあきらめませんでした。
高校を卒業したルディが最初に始めたことは父や兄が働く鉄鋼所に勤めて、大学に行くためのお金をためることでした。
4年経ったある日、彼の唯一の理解者であった親友のピートが事故でなくなります。彼は親友の死にショックを受けましたが、同時に体の内部から何かが目覚めます。
それまでは父や兄の言葉を聞いて、ノートルダム大学に入るための具体的な行動はしていなかったのですが、その時はじめて自分自身の声に従うことを決心しました。
そして、製鉄所を辞めてノートルダム大学に入るためのテストを受けます。
しかし、彼の学力では合格できませんでした。
それでも何とか入りたいという彼の熱意に打たれたカヴァナー神父の計らいで、まず付属の短期大学へ入ってから本校への転入できる可能性が生まれます。
そして、知り合い友人になったボブの協力や神父の応援、そしてルディ自身の猛勉強によって2年後に大学に編入することになります。
やっとのことでノートルダム大学に入ることができたのです。

 

そして念願だったフットボール部にも入り、一生懸命練習にがんばりました。
彼は他のどの選手よりも一生懸命練習をしました。
けれど彼の努力にもかかわらず、レギュラーに選ばれることはありませんでした。
4年生になったとき、彼は監督に一度でいいからゲームに出してほしいと訴えます。
監督はその願いを聞いてくれたのですが、それが実現する前に突然辞めてしまいます。そして新しくやってきた監督はルディの体の小ささ見て、ゲームに出してくれませんでした。
いよいよ大学最後の試合の当日になりました。
選手たちは監督に、自分たちの代わりにルディを試合に出してくれと頼みます。
しかし、家族や友人たちが見守る中、試合が終盤になっても彼の出番はやってきません。
監督はルディをゲームに出すことを渋っていたのですが、選手たちとスタンドの観客のルディコールに負けて、試合に出します。
それは試合終了残り27秒前のことでした。
この瞬間にルディの16年間の夢が実現したのです。
そしてゲームが終わった時、大観衆が彼の名をコールする中、チームメイトに肩車されたルディはフィールドから去っていくというストーリーです。

 

この映画を見てわたしが思うのは、才能とはいったいなんだろうかということです。語学の才能がある人、運動能力が高い人がいます。
それらを見て、才能というのはもって生まれたものと考えがちです。
自分にはない他人の才能を目の当たりにしたとき、たいへんうらやましくなります。
何もしなくても、努力しなくても持っているもの、それを才能と考えるわけです。
けれどこの映画からわかるのは、努力できること、そのこと自体が才能、努力=才能だということです。
他の人から見て劣っていると思えても、それを本人が努力することによって自分のものにしていく、その取り組む姿勢、努力そのものが一番の才能だということです。

 

敬和学園にもそういう先輩がいました。
多くの人はその人を見て、なんでも良くできる人、もともとたくさんの才能をもった人と考えます。
でも先輩の本当の才能が何かといえば、それは自分がやりたいこと、願うことに100%努力する、あきらめないで目いっぱい取り組むことだったのです。
わたしは、その先輩が卒業の時にサインをしてほしいといった聖書に「あなたの才能は自分が望むことに目いっぱい努力できることです」と書きました。
何もしなくても最初から持っている才能をうらやましがっていても、何も生まれてきません。
それより自分が願うことに精一杯、目いっぱいやり続ける、そういう努力をできる人に憧れるべきだと思います。
そういう人を目標にしたら、人生は内側から変わるわけです。
そして、そういう才能はすべての人が持ち合わせているものだということです。

 
今日の聖書に出てくるおかねの単位はタラントンと書いてあります。
タラントンはテレビなどに登場するタレントの語源です。
才能と訳します。
1タラントンを今のお金に換算するといくらかです。
お金の単位にはデナリオンというのがあります。
1デナリオンは一家4人が一日暮らせます。
そして1タラントンは6000デナリオンです。
つまり6000日を、1年365日で割ると、16,4年です。
当時の平均寿命は30歳代ですので、一生働いた分以上のお金、つまり一人一人には、神さまから有り余るほどの才能を与えられている、持っていると、今日の聖書には書いてあるわけです。
持っている才能がどのようなものか、人によって違いますが、少なくとも、努力する、あきらめないという才能はすべての人に等しく与えられているのです。
わたしたち一人一人の等しく与えられている才能、努力、あきらめないという才能、それをしっかり使いながら、3月までの学校生活に取り組んで行きましょう。