自分探しの敬和学園で 人を、自分を、好きになる。
2014/10/14
今日の聖書の話を読むたびに思い出す出来事があります。
今から50年前、私が小学校6年生の時のことです。
昼の給食時間でした。
当時は二人掛けの机を向い合せにして4人で食べていました。
そこに至るプロセスは覚えていませんが、向かいに座っていたU君が「ほんなら先生に聞いてくる」と言って、教室の前、窓側の先生用の机に座って給食を食べていたW先生のところに行ったのです。
困ったなあと思いました。
というのは、私はW先生が苦手でした。
5年生からの担任でしたが、なぜか小さなことでよく叱られていました。
U君は私の方をちらちら見ながら先生に何か話しています。
気が気でありませんでした。
また叱られるのかとびくびくしていました。
W先生は私の方を見ることはありませんでした。
話し終えたU君は席に戻ってきました。
座るなり言いました。
「先生なあ、前のこと、利己主義や言うてはったで」。
私はたぶん顔を赤くしてうつむいたのだと思います。
利己主義、これは私の年代にとって、実にきつい一発です。
相手を一言でやり込めることのできる言葉でした。
いうなれば「お前は最低の人間だ。ダメなやつだ」という宣告をするようなものです。それを担任のW先生から言われたわけです。
私は小学校卒業と同時に引っ越しましたので、それ以来U君にあることはありませんでした。
それから5年経った高校2年生の春のことでした。
3階の教室で数ⅡBの授業を受けていました。
6年生の時の先ほどの出来事がふっと思い出されたのです。
U君から聞かされたW先生の一言がずっと心のどこかに引っかかっていたのだと思います。
あの日の出来事をたどりながら、アッと思わず声が出そうになりました。
U君に騙されたことに気づいたのです。
W先生は私のことを利己主義とは言っていなかったのです。
もしそうなら、私の方を見たはずです。
そして何か言ったはずです。
U君は別の話をしながら、私にいかにもそう思わせるそぶりをしていただけなのです。
何てひどい奴だと思いました。
許せない気持ちになりました。
それからまた何年も経ってからのことです。
大学の神学部の新約聖書の授業で今日の箇所の講義を受けている時のことです。
あの日の私に対する利己主義という言葉が、神様がU君の言葉を通して私に言われたことに気ついたのです。
子どもの頃の私は利己主義といわれても仕方がなかったのだろうと思いました。
周囲の人を傷つけ悲しい思いをさせていたのは確かなのです。
今日の話はイエス様が十字架にかかって殺される少し前の出来事です。
シモンという人の家に滞在していたイエス様を訪ねてきた女性が、その場にいたみんなが唖然とするような行動に出ました。
それは死者を丁寧に葬るために使われる香油を頭の上から注ぎかけたというのです。香水の原料となる香油の量は半端ではありませんでした。
300デナリオン分以上でした。
これは一家族が1年間生活できる、つまり平均家庭の年収にあたる金額でした。
女性は高価な香油を惜しげもなくイエス様に頭からかけられたのです。
ですから我に返った弟子たちがこの女性を非難しました。
もったいないことをする、もしそのお金があるなら、食料や衣類を買って貧しい人に分け与えるべきだ。
弟子たちの考えはもっともです。
常識的で間違っていません。
ところが当のイエス様はこの女性の常軌を逸した行為に、好きなようにさせてやればいいといいました。
そして逆に、お前たちは大事なことがわかっていないと弟子たちを叱ったのです。
女性は自分のためではなくイエスという他者のために精いっぱいのことをしたのです。イエス様は弟子たちに「私とあなた」という立場ではなく「あなたと私」という視点からの見つめ方、物事のとらえ方を持ってほしかったのです。
ある学者が研究調査のために、子どもたちに質問をしました。
「ある人がもし生まれてすぐにライオンの群れの中に置かれたら、その人は自分のことを何だと考えるでしょうか」。
ほとんどの子どもの答えは「ライオンだと思う」でした。
私たちが自分を人だと認識できるのは、生まれた時からずっと、両親や祖父母といった家族、友だちや先生、地域の人という他者がいたからです。
私が私であるためには、あなたという存在、他者がいなければ成り立たないのです。
私は二人の子どもの親です。
でも最初から親だったのではありません。
34年前に男の子が生まれてきてくれた瞬間に私は親になりました。
子どもが私を親にしてくれたのです。
先生と生徒も同じです。
生徒がいてくれるから先生と呼ばれるのです。
敬和学園はこの点において、それをまじめに考える学校です。
生徒と先生の関係がほかの学校よりかなり近いということをよく言われますが、それは何もルーズな関係、いい加減な関係ということではなくて、生徒の存在を大切にしようとしていることの表れです。
私たちは自覚を持たなければ自分を中心にすべてを考え行動します。
自分を中心に考えると自然と自分が相手より上がってしまいます。
今風に表現するなら「マウンティング人間」です。
自分を相手より上においている限り、相手の気持ちや言葉、行動を理解することはできないのが私たちです。
ですから英語で人を理解する、物事を理解するという単語が、アンダ・スタンド、下に立つとなるのでしょう。
イエス様は「私とあなた」ではなく「あなたと私」という別の世界があることを教えてくれました。
私たちが幸せに生きるために、豊かに生きるために、その世界を目指すことの大切さを自ら生き、そして教えられているのです。
そうした人間関係の在り方をイエス様は神の国と呼びました。
それはどこか遠くにあるのではなく、それぞれが自覚することによって、そして身近なところから作り出されていくものです。
私とあなたではなく、あなたと私の関係を作り出すことが、「自分探し」の学校で学び働く一人一人に与えられた大きな課題であることを自覚したいと思います。
それでは3日間の第3定期テストに精いっぱい取り組みましょう。