毎日の礼拝

校長のお話

2014/09/03

「私は夢を見た」(マルコによる福音書5章25~34節)

私は今年の夏休み、プログラムの1つである「敬和キャンプ」に参加しました。

敬和キャンプは佐渡島にある佐渡教会を会場に5泊6日の日程で行われます。

今年は敬和生24人とスタッフ7名の31名が参加しました。

参加費用は安いですが、たいへん満たされた気持ちになるキャンプです。

毎年日程に日曜日を入れますので、その日は佐渡教会の礼拝に出席します。

今年も8月10日が日曜日で礼拝がありました。

礼拝後のことです。

Aさんという年配の男の人が歓迎の言葉を述べるために立たれました。

そして話を始められたのですが、私はあれっと思いました。

こういう場合ふつうは「みなさんよくいらっしゃいました」で始まります。

ところが今回のAさんの第一声は「私は昨晩夜中に夢を見ました」だったのです。そして自分が見た夢の話をされました。

 

 

Aさんが見た夢というのは、佐渡教会の礼拝で、敬和キャンプの参加者として礼拝に出席をしているをその中に、新潟市内に住んでいるお孫さんの女の子がいたというのです。お孫さんは小学校3年生です。

私はこの話どこに行くのだろうかと一瞬不安になりました。

ところが、Aさんのみた夢がまさに、Aさんの夢、希望、願いであることがわかった時に、私の心が何かに触れたような気持になりました。

確かに私は何かに触れたのです。

Aさんの話されたこと、それは小学校3年生のお孫さんが6年後に敬和学園に入学して、そして敬和キャンプに参加して、一緒に礼拝をする高校生の1人として、そこに座ってくれることを願っていると、言うことでした。

さらに話されたのは、それまで自分も元気でいなければならない、そのためには健康に注意して過ごしたいということでした。

Aさんは今78歳です。

6年後は84歳です。

それを少し笑いながら話されたのですが、聴いている私には緊張が走ました。

6年後にお孫さんと一緒に礼拝に参加するためには、条件としてお孫さんが敬和生になっていること、そしてAさんが健康でいなければなりません。

それに加えて条件として、6年後も敬和キャンプを続けていなければならないのです。つまりそういう願い夢を聞いた以上、キャンプをやめるわけにはいきません。

そして新潟に住んでいるお孫さんが、進路先として敬和学園を選んでくれなければ、Aさんの夢は実現しないのです。

ですからお孫さんが敬和学園を進路として選びたくなるような学校になっていないといけないのです。

話を聞いてしまった以上、知りません、私には関係ありませんとはいえない、そういうことが起こったのです。

だから緊張したのです。

Aさんの夢は敬和学園にいくつもの課題を与えることになりました。

Aさんの夢を実現することが、Aさんのためだけのことではなく、たくさんの人、例えば高校進学に悩んでいる人たちの希望につながることになります。

せっかく敬和学園に入ったけれど、なかなか敬和生活を充実させることができない人を支えるプログラムに、ますます敬和キャンプがなっていくことが求められているのです。

 

 

今日の聖書には長年病気を患っている女の人が出てきます。

彼女はその病気を治すために何年もの間、あちこちで見てもらってきたようです。

しかも治療のために持っていた財産を使い果たしたのです。

それでも病気は治りませんでした。

彼女の夢、それは病気が治って、健康になり、そして毎日を元気に過ごすことでした。

しかしその夢は破れていました。

これからも実現できそうにありませんでした。

その彼女が、病気を治してくれると評判になっているイエスという人物が近くに滞在していることを知ったのです。

そして、自分の病気も何とかしてもらいたいと期待を持ってやってきました。

ところが大勢の人がいたために、イエス様に近づくことができませんでした。

そこで彼女は思い切った行動をとります。

それはイエス様の服に触れるために、人をかき分け前に出て、通り過ぎようとしたイエスの後ろから服に触れた、引っ張ったのです。

考えようによったら失礼な行動です。

それでも触れようとしたのは、触れることで何かが起きることを願ったからです。

しかも聖書には彼女の願い通り触れることによって癒されたと書かれています。

こういう話を聞いて何となく嘘くさいと思う人がいるはずです。

けれど触れるということで、確かに起こることもあるのです。

みなさんの中にも経験ある人がいるはずですが、臭いのしみついたタオルや毛布を離すことのできない子どもがいます。

タオルをもし洗濯されたら泣き出します。

それは洗濯されることによって自分の皮膚が剥がされたようなヒリヒリとした感覚になるからです。

臭いの染み付いたタオルが、なじまれた安心した空間を作り出しているのです。

病気の女性はイエス様の服に触れました。

あちこち歩いているイエス様の服がきれいだったはずはありません。

その服にはそれまでに出会った様々な人々の悲しみや痛み涙が染み付いていたのだと思います。

その服に触れたわけですから、女性は子どもがタオルに触れることで安心できるような、そんな感覚を持つことができたのではないでしょうか

しかも、大勢の人に囲まれて身動きがとりにくかったにもかかわらず、イエス様は彼女が服に触れたことに気づいて、誰が自分の服に触れたのかと尋ねたのです。

そして彼女の話を真剣に聞いてくれました。

それによって、彼女は病気の自分は不幸だ、全財産を使ったにもかかわらず治らない自分は不運だと、長い間否定し受け入れられなかった自分自身を受け入れることができるようになったのです。

それまで自分をガンジガラメに縛っていた思いから解放されたのです。

 

 

違う時代に生きる私たちはイエス様の服に触れなくても、さまざまな形でイエス様の心に直接触れることができます。

佐渡教会の礼拝の後のAさんの話を聞いて、私が触れたものが何かといえば、それはまさにイエス様の心であったのです。

Aさんの言葉を通して、敬和学園がどのような学校であってほしいのかを、イエス様は私に語られたのです。

そしてそうした人を癒し励ますイエス様の心と触れる機会は、いつも用意されているのです。

ですから「娘よ」と呼びかける34節の言葉は次のように読み替えることができます。

「敬和学園に学ぶみなさん。

あなたの信仰があなたを救っている。

だから安心して学校生活に励みなさい。

ただ一人内側で悩まなくてもいい。

元気に生活していきなさい。

私がいつも共にいるのだから安心しなさい」。