毎日の礼拝

校長のお話

2014/07/07

「『ぼっちぼっちいこか』から『ぼっちぼっちでいこう』へ」(イザヤ書41章9~10節)

30年前の6月下旬、ちょうど今頃のことです。

私はその4月に京都から北海道・札幌に移り住みました。

理由は新しい教会を作ることになり、私がその教会の牧師になったのです。

日曜日の礼拝に来る人を増やすこと、教会員になる人を増やすこと、それを周りから期待されました。

けれど、その期待に応えるだけの何かが自分にはあるとは思えませんでした。

何をどうしたらいいのか、経験不足ですから、よくわかりませんでした。

その時の私の顔は思いつめたような暗い表情をしていたのだろうと思います。

その私を気遣ってか、ある先輩の牧師が「まあ、一緒に御飯でも食べましょう」と誘ってくれました。

そして馴染みのお寿司屋さんに連れて行ってくれました。

食事をしながらその先輩牧師は自分の失敗談を話してくれました。

それは深刻なものから笑えそうなものまでいろいろでした。

「あんなあ、赤信号を無視して横断歩道を渡っていたら、それを見た人が、交通ルールを守らない牧師さんの話なんか信用できないと言って、教会に来なくなったんだ」。失敗談をすることで、私の心を軽くしようとしてくれたのです。

先輩牧師は出された料理の一皿にある真っ白な食べ物を指さして、それが何かを尋ねました。

マグロの刺身の横に並んでいるので、やはり刺身のネタであることはわかりますが、それ以上のことはわかりませんでした。

食べてみてもわかりませんでした。

先輩牧師が言いました。

「これはボッチです。ミズダコの頭の皮をむいたものです。北海道ではこれをみんなボッチと呼んでいるのです。小西さん。一生懸命なるのはいいけれど、そんな顔していたら、誰も来ませんよ。肩の力抜いてボッチボッチしたらどうですか」。

 

最近しばしば「ぼっち」という言葉を聞くことがあります。

それはタコの頭ことではありません。

そのぼっちについて辞書には次のように書かれています。

「ぼっちとは「一人ぼっち」の略。

一人ぼっちは一人法師が崩れた言葉で、本来はお坊さんがどこの宗派にも属さないこと、または離脱した様子を表す。

現在では一人で寂しい人のことを「一人ぼっち」と呼ぶ」。

「ぼっち」は完全にマイナスの言葉として使われているようです。

一人でいること、一人になることが、何か悪いことのように思われているのです。

一人でいる、一人になることが恥ずかしい、怖いとさえ思われています。

ですから、ボッチにならないための方法があれこれ考えられます。

あるところにボッチにならないためにはどうしたらいいですかという質問があって、それには次のような答えがありました。

「部活入る~?」とか、「中学どんな感じだった~?」とか、「桜きれいだねー。」とか。大事なのは、どんなに些細なことでもいいので、どんどん話かけることです。

とにかく質問することです、とありました。

 

この答えにいうなれば真逆の答えを持っていて、ぼっちになることを求めるのが敬和学園です。

私たちは毎朝全校礼拝を行います。

チャペルに700人近い人が集まります。

相当の人数です。

毎朝の全校礼拝を、順を追って説明し解説すると次のようになります。

文化委員長が「もうすぐ礼拝が始まります。立っている人は自分の席について下さい」とマイクで呼びかけます。

するとそれまで喧騒が覆っていたチャペルに落ち着きが生まれ徐々に静かになっていきます。

そして宗教主任の野間先生が入口のドアを閉めて合図を送ると、文化委員長が司会者の隣に立ちます。

これを見てチャペル全体に静けさが降りてきます。

そして沈黙の音が聴こえたところで、司会者の「今から礼拝を始めます。目を閉じて黙祷して下さい」によって礼拝が始まります。

全校礼拝は一人になることが求められます。

決して群れるために集まるのではありません。

一人になって聖書を読み、そこで語られる言葉を一人になって聴くためです。

それは一人になってこそ分かることがあるからです。

一人になって初めて、人は物事を深く考えることができるようになるからです。

人として成長するためには一人になることが何より大切なわけです。

 

そう考える敬和学園ですが、最近とてもうれしい文章に出会いました。

敬和学園の求めに見事に応えているのです。

2年生寮生のAさんが寮の礼拝で次のような話をしたのです。

「…私は世間の言う「ぼっち」の中の一人です。

移動教室は99%一人で行きますし、休み時間はトイレに行くか机に座っているかしています。

この話を聞いて私のことを「友だちがいないの」と心配してくれる人がいるかもしれません。

しかし私には素敵な友だちがたくさんいます。

私は敬和に入って初めて「ぼっち」を経験しました。

中学の頃は何においても誰かといつも一緒でした。教室移動、トイレ、休み時間を常に5~6人のグループで過ごしていました。

今考えると「ぼっち」になることができなかった、しんどかったなと思います。

敬和での「ぼっち」は孤立や仲間のいないことではなく、自分の好きなように行動し、一人の世界も楽しみ、時には友だちと賑やかに過ごすことです。

今、学校生活や寮生活で一人じゃ不安だ、一人で行動するのが恥ずかしい、寂しいと思っている方はぜひ敬和で「ぼっち」を経験して下さい。

一人でいることで見える物や感じる物も変わってきます。

私は卒業された44回生の素敵な友だちをたくさん持つ先輩から「ぼっち」生活の素敵さを教えられました。

私も自分の卒業までにはその先輩に負けない気づきや学びを「ぼっち」生活からもしていきたいと思います」。

 

一人になることが、生きる上でとても大切であることを、Aさんの言葉が語ってくれています。

敬和学園には実に見事な考え方と生き方をしようとする人が育っていることがわかります。

ぼっちになることでさらに明らかになることがあります。

それは、自分は決して一人ではないということです。

一人になると一人ではないことが実感できるとは変な話のようですが、変ではないのです。

それは自分の傍らには、私に寄り添うようにイエス様が共にいて下さり、共に歩んで下さるということです。

そのことにぜひ気づきたいものです。

そのことを力として今週も共に歩みましょう。