毎日の礼拝

校長のお話

2013/10/03

「グレゴリオ聖歌」(ペトロの手紙Ⅰ 4章7~10節)

私たちが礼拝で歌う讃美歌にはある種の力があります。

歌うことで、自然と元気が出てくる曲があります。

悲しみの中にある人を慰めることができる曲もあります。

私たちがふだん歌う讃美歌の原型の一つにグレゴリオ聖歌というのがあります。

キリエ第11番という曲のさわりを聴いてください。

グレゴリオ聖歌というのはどれもが大体こんな感じでしょうか。

もしグレゴリオ聖歌をストリートミュージシャンが駅前や公園で歌い演奏したら、立ち止まってくれる人がいるでしょうか。

高校生がこれを路上ライブでやったら、同年代の人たちが集まってくれて、拍手してくれるでしょうか。

そもそもそういうシチュエーション自体が考えにくいと思います。

 

 

ところが、ありそうもない路上ライブでグレゴリオ聖歌をギターで弾き歌う高校生が登場する物語があります。

それは重松清の「ヒア・カムズ・ザ・サン」という話です。

主人公のトシは高校1年生です。

化粧品の訪問販売をしている母親と二人暮らしです。

年齢が上がるにつけてトシは母親ときちんと話さなくなっていきます。

そして口を開けば偉そうなことを言います。

ある日、仕事から帰ってきた母親は、駅前の遊歩道で路上ライブをしていた高校生の話をします。

母親は興奮したように、その日が路上デビューだった高校1年生のカオル君の歌と演奏、そして容姿などについてあれこれ話します。

それに対して面倒くさそうに返事をするトシに、母親は一呼吸おいて、自分が会社の健康診断で引っかかったこと、胃カメラで再検査しなければならなくなったこと話します。

その晩、母親は自分の体のこと、これからの生活について息子と真剣に話し合いたかったのです。

ところが息子のトシは母親の話に真剣に向き合おうとしませんでした。

内心は母親の健康について心配でたまらなかったのですが、身をかわすようにするっと逃げたのです。

それが彼の癖でした。

自分でも情けないと感じている性格でした。

トシはそうした自分を次のように表現します。

「俺には子どもの頃から悪い癖がある。弱い性根というか。まともに向き合うとパニックになりそうなほど困った状況になったら、考えるスイッチをオフにしてしまう。頭の中を真っ暗にして、考えるのをやめる。何も見てない。なにも聞いてない、と自分に言い聞かせ、「なかったこと」にしてしまう」。

トシがそうした態度を取ることが想定していたのでしょう。

母親も翌日以降、体調のことや検査のことについて話しませんでした。

それこそまるでなかったかのような元気な様子を見せます。

そしてカオル君の路上ライブを見ていて、遅くなったからとデパ地下のお総菜やご馳走を毎日のように買ってきます。

母親が元気でないのは食欲がないことからはっきりとわかります。

ところが、それと反比例するように、路上ライブのカオル君がいかにかわいくてかっこいいと目を輝かせるように元気に話して聞かせます。

 

 

母親の言葉から、彼女が自分の家庭のことや息子のトシのことまで、あれこれ話していることを知ります。

ですからトシは否が応でもカオル君に関心を持つようになっていきます。

それが10日以上続いたある日の夕方、トシはカオル君に会いに行きます。

そこでカオル君から母親の病状を知らされます。

母親が胃カメラの検査をすることになったとトシに話した夜は、すでに再検査を受けていて、医者から胃と十二指腸にガンが見つかり、肺にも小さな腫瘍があることを告知された日だったのです。

二人だけの家族にとって起こった重大な出来事、そのことについて母親は息子としっかり語り合いたかったのです。

けれど息子がそういう場面になると必ず逃げること、考えることを止めてしまい、大切なことを知ろうとしない、問題から逃げ出すことがわかっていたので、路上ライブのカオル君に関心を持つようにさせ、そこに行くように仕向け、そして本当のことを知るように仕掛けをしたというわけです。

母親は同時に、トシの表現によれば、どれも同じように聞こえる、どこで盛り上がればいいのかわからないまま終わる、ゆったりとしたお祈りっぽいカオル君のグレゴリオ聖歌に癒され力を得ていたことがわかりました。

本来なら母親を身近にいて慰めなければならないのは息子の自分であったはずです。

トシはそこにきて、ようやく母親が自分の命を懸けて、向き合わなければならない自分の課題と問題から逃げ出さず、しっかり向き合い考えるようにしてくれたことがわかりました。

母親が自らの存在をかけて息子を愛し、たとえ自分が死んだとしても、彼がこれからの人生をどのように生きたらいいのかを、まさに自分の体でもって教えようとしてくれたのです。

 

 

イエス・キリストには弟子と呼ばれる人たちがいました。

キリストの弟子に選ばれた人たちだから、かなり立派な人たち、それなりの人たちかと誰しも思うのですが、実際はたいしたことありませんでした。

口では偉そうなことをいいながら、いざとなったら、自分が背負わなければならない課題から逃げ出し、まるで関係ないとの態度をとったのです。

その彼らに対して、イエス様は十字架に架かるという、まさに自らの命を懸けて、どのように生きたらよいかを伝えようとされました。

そして自らの命を懸けた十字架のイエス・キリストに出会うことによって、弟子たちは自分の人生から逃げ出さない、目の前の課題にしっかり取り組む、そこにこそ、生きる喜びと意味があることをしっかり心に刻むことのできる人間になっていきます。

どのような時にも、課題や問題を共に背負い考えて下さる存在がいることを知ることによって、人は本当の強さを持って生きることができると聖書は教えてくれます。

敬和学園に学ぶということは、ここで学校生活を過ごすことは、そうした存在に必ず出会えるということです。

目の前にある課題に逃げなくてもいいということです。

その前提として、十字架のキリストが愛をもって、必要な助けを必ず備えて下さっていることを信じる自分でありたいと心から願います。