毎日の礼拝

校長のお話

2009/10/05

「光あれ」(創世記1章1~5節)

数字を九つ並べて言います。4、5、5、4、4、3、3、4、4、4。
同じく違う数字を九つ並べます。1、1、1、1、1、1、1、1、1。


最初の数字は私の中学校1年の時の通知表、9教科の5段階評価です。
社会と数学が5で音楽と美術が3以外はすべて4です。自分でも意外だったのは中1の成績はまあまあだったことです。
ただしこれが中3になったときは相当ひどいものになっていました。
そして後から読んだ数字1、1、1と並べた数字はもうわかると思いますが、ある人の9教科の通知表です。
オール1です。この人の場合、中3の成績がどうかといえば、音楽と技術が2になった意外すべて1でした。
この通知表の持ち主の名前は宮本延春(まさはる)さんという人です。

 
宮本さんは今愛知県の私立高校の物理の先生です。
宮本さんは「オール1の落ちこぼれが教師になった」ということで、しばらく前に話題になりました。
どのくらいギャップがすごいか説明します。
宮本さんは27歳で名古屋大学という国立の超難関校のしかも理学部というさらに難しい学部に入学して4年、その後大学院で5年間理論物理学という勉強をした人ですが、その宮本さんの中学1年の成績がオール1だったのです。
もっと詳しくいうと、宮本さんは中学を卒業するときには、掛け算の九九は2の段だけしかいえませんでした。
漢字でしっかり書けるのは自分の名前だけ、英語で読めるスペルはBOOK、ブックだけでした。
その宮本さんがなぜ、12年後に名古屋大学に入ることになったかです。

 
小学校、中学校を通じて宮本さんは大変な勉強嫌いでした。
そもそもなぜ勉強しないといけないのかわからなかったといいます。
そして、親の都合で転校を何度もするのですが、転校先の学校でいじめの対象にされています。
宮本さん自分のことを「筋金入りのいじめられっ子だった」といいます。
そんな宮本さんですから、中学卒業と同時に大工さんの見習いとして働き始めるのですが、仕事先でもやはりいじめられます。
その宮本さんがいつどこで変わることになったかといいますと、23歳の時のことです。親しいある人がテレビの番組を録画したテープを貸してくれました。
そのテープというがNHKスペシャルの「アインシュタイン・ロマン」という番組でした。

 
アインシュタインというのは有名な科学者です。アインシュタインといわれると、わたしもすぐに相対性理論という言葉が頭に浮かんできます。
番組はアインシュタインの物理学を難しい数式を使うことなくやさしく丁寧に説明しているものでした。
宮本さんは90分の番組をまるで惹き込まれるように見続けます。
そして見終わった時に、今までに味わったことのない知的な興奮を体験することになります。
なぜ、それまで勉強らしい勉強は一切していない、科学のこと物理のことなどにまったく興味のなかった宮本さんがアインシュタインの相対性理論に関心を持ったかです。
宮本さんは勉強が嫌いで、成績も悪く、みんなからバカにされるそんな自分に生まれてきた意味、生きる意味があるのだろうかとと考えていました。
そしてそれでも意味があるとしたら、それは何だろうとずっと考えていました。
神様は人間を平等に作ったというけれど、頭のいい悪いもある、お金がある家ない家に生まれる違いもある。運動能力も人によってずいぶん違いがある。損か得かで考えると随分不公平がある。
それでも、この世のすべてが神様によって作られたとしたら、そしてその神様が人間に平等に与えたものがあるとしたら、それは時間だけではないだろうか、生きている時間だけは平等だ。
だから何かに時間をかけて努力すれば、未知の可能性がひらけるのではないだろうか、と考えていました。
そのように時間に関心をもっていたところに、アインシュタインのロマンという番組に出会ったのです。

 
アインシュタインの相対性理論を簡単に言いますと次のようになります。
時間は規則的で正しく絶対変わらないものだと考えます。
その考えに対して、神様がこの世界を創ったとき、絶対変わらないものとして作ったのが「時間と空間」ではなく、光だというのがアインシュタインの相対性理論です。神様はこの世界を「光の速度」を不変に保つように作られたということです。
そのような説明に立つと、今日の箇所、聖書の最初に書かれている言葉の意味がよくわかります。
物事の最初の秩序、すべてに勝る秩序、それは光である、という聖書の考え方を、アインシュタインという科学者の中の科学者が説明しているのは、わたしにとってもおもしろいものですが、時間を自分の生きる意味として考えていた宮本さんにとって、まさにこれだということだったのです。

 
それがきっかけで勉強し始めた23歳の宮本さんが本屋さんに行って買ったのが小学校3年生の算数のドリルでした。
2年生と3年生のどちらにするか迷ったのですが、2年生の復習から始まっている3年生のドリルを選んだというのです。
その日から失われた長い時間を取り戻すための勉強が始まり、数年後に超難関の名古屋大学に合格することになります。
その宮本さんがなぜ自分がいわゆるだめな人間として、子ども時代を、そして中学校までの学校生活を過ごしてきたのか、わかったことがあるといっています。
それは自分を「特別扱い」していたことです。

 
特別扱いというのは、一般的にはいい意味で使います。
勉強ができるから、運動ができる、何々ができる、何々を持っているから、という、それだけで存在そのものを特別なものとして扱うということですが、反対にできない、もっていないということで、だめな人間ということで切り捨てるのも、一つの特別扱いです。
特別扱いと、一人ひとりを大切にするということは同じではありません。
大切にするというのは聖書でいえば愛するということですから、愛することと、特別扱いすることは同じではありません。
しかも他人が特別扱いするのではなく、自分で自分を特別扱いしていたわけです。
それではよくなるはずはない、楽しくなるはずはないということです。
自分で自分をついつい特別扱いして、つまりだめにしてしまっている人いるかもしれません。

 
自分で自分をだめにする特別扱いからぜひ抜け出しましょう。
自分を大切にする意味でも、自分を愛するためにも、がんばれることはがんばりましょう。しっかり耐えましょう。
そのための助け支えがあることを信じて、1日に1日に取り組んでいきましょう。

 

(9月25日)