のぞみ寮通信

大望館

2012/05/07

大望館通信 第191号(5月6日)

< 寮 祭 >

 

 寮祭と言えば、なんたって劇です。今年の感想は、よくあそこまでまとめることができたなという感心の思いでいっぱいです。25日水曜日のリハーサルでは、ヤバいくらいグダグダだったと聞いていました。「今年の大望はヤバい」そんな会話がされているのを何度か耳にしました。“ヤバい”の意味は“ヤバいくらい良い”という意を表す時にも使われますが、25日の段階で「ヤバいくらい…」は、“最低”だったんです。それをあそこまで持ってきたのはスゴイです。持ち時間オーバーというミスはあったものの、あそこまでまとめてきた君たちは大したもんです。

 今年は、各館それぞれが“らしい”仕上がりだったように思われます。あの十数分の短い時間に各館の雰囲気が伝わってきました。何よりもやっと1ヶ月経とうとしている45回生の寮生が、入寮礼拝の時とは全く違う顔を見せてくれ、それぞれの館の雰囲気に溶け込んでくれているのが伝わってくる、そんな劇であったことは何よりも嬉しい事です。

 「寮祭で劇・・・?」思ったことはありませんか。私はのぞみ寮に赴任して一年目、謎に思った一つでもあります。でも、その謎は寮祭の日が近づくにつれて解けてきました。緊張していた、その当時の38回生の15名の表情が変わってくるのが分かります。化けの皮?がはげてきて、素が見えてきます。「あ、こんなに面白い奴やったんや」そう思わされることが何度もあり、お互いの距離が近くなってくるのが、私から見ても分かります。互いの距離を縮めるには、寮祭での劇というツールが最適である事に気が付かされました。

 そして今年も、45回生一人ひとりの表情が変わって来ています。笑顔がたくさん見られるようにもなりました。素も見えてきています。「こんな奴やったんや」そう思わされた事も何度かあるでしょう。この劇によって入ってきたばかりの45回生の距離が、近くなったことは間違いありません。それが何よりの成功です。そして、私は一人注目する男を見つけました。これから幾度となくこの通信に名前が載ることでしょう。そう、M…しかもシュビ。彼はこの先どんな話題を提供してくれるのだろうか?心配でもありますが、大いにその成長ぶりを、みんなで堪能しましょう。

(澤野)

 

 

 

 

< 男の歌声 >

 

 寮祭が終わり、GW後半の連休中にある保護者の方から葉書が送られてきました。内容は寮祭を見ての感想でした。シンプルであったけど、45回生の全員が主役でとても楽しく見させてもらったと喜びの文章がつづられており、私もその文章を読んでいて心が温められるそんなお手紙でした。その中に、特に驚かされた事として、大望館の「ありがとうのうた」の声の大きさに驚いたと書かれていました。この「ありがとうのうた」の声の大きさは信田寮長も「大望の声は大きかったね」と褒めてくれていました。私は毎日、君たち礼拝の讃美歌の声を聞いているため、その歌声の大きさは日常であり、当たり前という感覚でいるため、その時は何も感じませんでした。しかし思い返せば、大望の礼拝を見に来た他の館の生徒や先生たちは讃美歌の声のでかさに驚いて帰って行きます。今回も大望館がトップバッターに歌ったのはその声の大きさに他の館が続くようにと、あえてトップバッターに選ばれたわけです。葉書には大望生の歌声に“ドキン”としました、と表現されていました。君たちの歌声が少なからず一人のちょっと年上の女性のハートをときめかしたという事です。

 思い返せば8年前。私がのぞみ寮に赴任してきて初めての全体礼拝で、女子寮の歌声の大きさに驚かされたのを記憶しています。大望館での礼拝でも今時の高校生が讃美歌をこんなに歌うなんて、と感動しましたが、女子寮には到底かなわない声量でした。よく見ると全く歌っていない生徒も何人かいました。この状況を変えよう。それは私の大望館での課題の一つでありました。私自身が音程そっちのけで大声で讃美歌を歌っていたのを思い出します。

 それがいつからでしょう「大望の讃美歌は一番声がでかい」それが定着していました。それが当たり前になっていました。私の課題は一つ減っていたのです。大きな声を出して歌うという事は、それだけ意識しないとできない事だと思います。意識するという事は、大事にするという事に繋がるんじゃないでしょうか。礼拝で歌われる讃美歌を大事にしてくれてるんです。最近では奏楽者が定着してしまい、同じ讃美歌ばかりですが、それでも大事に歌ってくれるんです。そんな君たちを私は誇りに思います。

 (澤野)