毎日の礼拝

校長のお話

2009/09/11

「ゾウのアサコ」 マタイによる手紙6章25~34節

北海道の旭山動物園といえば一度行ったら、必ずまた行きたくなる動物園です。設備はたいしたことはないのに、パンダのように人気のある動物がいるわけではないのに、そして旭川というたいへん行きにくい場所にあるのに、日本で一番入場者の多い動物園になっています。

 

その旭山動物園の園長である板東元さんが今から10年ほど前に56歳で死んだ野性のアジアゾウのアサコについて書いた文章があります。
ゾウはもともと群れを作って暮らす動物ですが、アサコは小さい時に旭山動物園に引き取られてからずっと一頭だけで暮らしていました。
しかも環境のよくない園舎で、毎日毎日変化のない日々を送ります。
もし人間だったら精神的耐えられなくなっただろう、それなのに、アサコはとびきりの優しい目をしていたというのです。
坂東さんはそうしたアサコにたまらない魅力を感じたそうです。
そのアサコも歳をとり体が弱り、そして重い体重を支える足の裏がひどく化膿します。

 

しかし野生動物の習性もあって、アサコ寝る時も決して横にならないのです。誰が見ても痛くてたまらない足をしているにもかかわらず、アサコはうめき声を上げることもせず、園舎の中で立ち続けていました。
どうしようもなく痛いときには、扉の鉄棒に鼻を巻きつけて、それを支えにしてなお立っていたというのです。
病状がさらにすすみ、激痛が走っているはずなのに、アサコは優しい目をしてどこか遠くを見つめます。
ただ淡々と足の痛み、傷を受け入れているようでした。

 

そしてその後しばらくして治療のかいもなく56歳で死にます。
アサコが死んでしばらくして、坂東さんが気づいたことがあります。
それは、耐え切れないような痛みの中にいながらも、なぜ、アサコはとびきりの優しい目を持ち続けることができたのかということにです。
そのことと今日の聖書の言葉「思い悩むな」と「野の花」が大いに関係しています。

 

人間はいざという時に「自分が」を主張します。いざというときに「とにかく自分が第一」になります。
その自分と言う意識が野の花にあるかといえば、あるとは思えません。
野の花が「わたしが」「わたしが」という主張をすることはありません。
それを言い換えるならば、ありのままの現実や環境を素直に受け入れて生きているとの言い方ができます。
野の花というのは車の排気ガスが充満している道路端でも、人に踏まれやすい道端でも、そこに咲きます。

 

野の花には人間のような「自分」がありません。
自分がないということはどういうことでしょうか。
それは自分と他人をわける必要ないということです。
自分がなければ、わたしというものがなければ、そこに苦しみや悩みが生まれることはないということです。

 

悩みや苦しみは、わたしがあるから、出てくるのです。
ゾウのアサコは3トンという大きな体をしているにもかかわらず、人間なら耐えられないはずの足の痛みと苦しみの中で淡々と生きることができたのは、そして、たんたんと優しい目をしたまま死んでいくことができたのは、ゾウとして生まれた生を、ぶれることなく、そのままゾウとして生きたからだといえます。

 

そこに人間のような「わたし」がいなかったということに坂東さんは気づきます。
坂東さんは、他の動物もまた、淡々と生き、淡々と死んでいくのを見て、それが神々しく見えたといいます。
神々しくという言葉は、神神と書きますから、そこに神の存在を見るということです。
同時、ちょっとしたことですぐに思い悩んでしまう、必要以上に苦しい思いをする自分がいかに小さい存在かということを思い知らされます。
人間は動物と違って自分があり、わたしがあって、それを捨てることはできないということです。
捨てることができないから悩んだり苦しんだりします。
逆に言えば、ちょっとしたことに悩んだり苦しんだりするのは、その人がまさに人間だからといえます。

 

そこで、さらに気づかされるのは、存在そのものが神々しさをもっている他の動物と違って、人間が自分の人生をぶれずに生きるためには、そして自分らしく生き抜くためには、それを可能にしてくれる神さまという存在が必要だということです。
そのようなことがわかったとき、イエス・キリストが十字架に架けられて死んだのは、一人ひとりのわたしのためだ、ということの意味がわかってきます。
イエスキリストの十字架の死にリアリティーを感じるようになります。
イエスキリストが十字架にかかられたのは、ゾウのアサコが、ぶれることなく、ゾウとして生きることができたように、人間が、ぶれることなく、人間として生きるためだということです。
自分の力で捨て去ることのできない「わたし」、わたしを苦しめるわたしというものを、イエス様が十字架に架かることによって、取り去ってくださいました。
それによって、わたしたちはわたしたちらしく生きることが可能になったということです。

 

そういう意味で、まさにわたしたちは生かされているのです。
生かされて今を生きるわたしたちですから、その命をただ自分のためにだけ使うのではなく、隣人のために、とくに弱い立場にある人のために、そしてこの社会が少しでも生きやすくなるために使いたいものです。
それを今日から始まる敬和学園の新しい1週間の生活を通して、しっかり考えることのできる、自分、わたしになっていきましょう。